ネット○○派 part52 ネット○○派に釣られないようにするために 

ここは同感。おっしゃるとおり。
ニセ科学批判に釣られる相対主義者たち : 社会学玄論

ネット議論で、ニセ科学批判関係ほど、甘美なものはない。これはもう科学論争として観察するよりも、ネットコミュニケーションによる大スペクタル・エンターティメントとして観察したほうが面白い。ニセ科学批判、おそるべし、おそるべし・・・。

そもそもから言うと、ニセ科学批判を「科学論争」としてみること自体が間違いです。あの人たち、結果的に科学をネタにして人を釣ってるだけで、そのためにもっともらしい「議論」をやってみせてる。真面目に相手しても全く議論にならない。


じゃ何かというと、僕がずっと言い続けてるように「ニセ科学批判はネット右翼と同じ」だとすると、すっきりする。彼らがネットでやってることは実際ほとんど同じで、単にニセ科学批判の人たちは教養がいろいろ邪魔をするというだけでしかない。だいたい、ネット右翼ニセ科学批判も議論の仕方がよく似ていて、相手を質問攻めにしてつぶしにかかる同じ手を使ってるのが面白くてね。

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どこの国にもネット○○派はあるんだろうけれど、日本の場合、「正しい」とか「真理」に対する感覚が欧米と違う。で、軽い調子でみんなで「正しい」ことにのっかって騒いで、それが悪いこととは思わない。もし社会の病理だというなら、こういう日本人の心性のほうかもしれない、、、と大上段に言っちゃうと、ネットではミイラ取りがミイラになってニセ科学批判と同じ次元になるからあまり言わないことにしてるけれど、でも、そうだと思う。


ただ、ネット右翼やはてサは、政治なので、一歩引いて見やすいし、「あいつら変だぞー」と言っても他の人は分かってくれやすいんです。一方でニセ科学批判は立派な大学の教授や医者がかかわってるので、ちゃんと見てないと簡単に釣られてしまう。でも、ネット右翼に釣られるなというの同じように、ニセ科学批判に釣られるなと言ったほうがいいと僕は思う。もっとも、相対主義だの原理主義だのの話にするとまたずれる。


たとえば、ニセ科学批判がいいなとちょっと惹かれている人たちには、次のようなことを考えてほしいと思う。まあ、ネット○○派一般にも言えるけれども。

ブコメやコメント欄で「お前は間違っている」と大勢がまとまって突っ込んだり議論を吹っかけたり罵倒したりするようなネット○○派に、今までろくなものはなかったし、今後もでてこないだろう。

なんでそこまで自分たちが正しいと思い込めるようになってるのか、そしておかしいなと感じるところがあれば、なぜそう感じるのか考えてほしい。

・ネットの「○○先生」や「あの○○さん」の言うことを過剰に信用しない。

ネットって不思議で、「○○先生」や「あの○○さん」と直接意思疎通を図ると、それでその人に対するリスペクト度合いが増す。たまに感激する人までいる。


でも、「○○先生」も「あの○○さん」も変なことを言うときはある。そのときは、なぜ変なのか考えるべきであって、リスペクトのあまり「変だと感じる自分がおかしい」みたいな無理なものの考え方は避けるべきだ。

・ネットでは人とのつながりに慎重になったほうがいい

ネット○○派の最大の問題は、仲間内でつるんでいくらでも自己正当化の屁理屈を作るようになること。「○○先生」や「あの○○さん」がおかしなことを言っても、仲間内で議論にはなってもボコリはしない。だからほっとくと議論がエスカレートする。仲間がいるので、ますます正しいと信じて屁理屈の製造に邁進するという悪循環。


そこであからさまに「お前たちは変だ」と言ってやると、その瞬間にこいつは敵だと認識してボコりにかかって、積み重ねた自己正当化の屁理屈を駆使する、これがネット○○派。


こういうことを避けるためには、基本的にはネットで赤の他人とつるまない、ということが大事だと思う。


これに加えて、ニセ科学批判には、

ニセ科学批判は、海外の疑似科学批判や懐疑主義者のことをよく引き合いに出すが、建前どおりなら文脈が違ってくるし、同じものとして考えるなら建前が成立しない。そのズレや違いを個人個人で感じて考えてほしい。

ということも加えていいと思う。ニセ科学批判は、本音はともかくとして、海外の同系列のものとはだいぶ違っています。たぶん、菊池先生たちが一番最初にニセ科学批判をはじめたときに、日本の事情を考えて改変したんだろうけど、それが問題というか、あえて言えば素人を釣るのに都合がよすぎる、というのはもう何度も書いたので省略。でも、普通はこんな洋の東西の差は分からない。文化的背景が、違いすぎるので。カール・セーガンの「光と闇(悪霊)」のたとえだって、本当に意味するところは日本人には縁遠いものであるように思います。で、外国の懐疑主義者たちの言うことを字面で真に受けて信じてるってことは、あるんじゃないでしょうか。あちらの理性崇拝がニセ科学批判にもあるとしたら、そういうこと以外にちょっとなさそうだし。菊池先生の場合は、ごりごりの左翼だからそれ経由で理性崇拝にかぶれてる、ということもありそうですわね。


といった具合で、科学者の主張も文脈においてやらないと分からない部分ってのがあるわけで、そんなの普通は分からないです。だから、普通の人がわりに簡単に釣れちゃう。
追記
社会学玄論のコメント欄に黒木玄さんの相対主義批判の記事を持ち出す人がいるわけだが。
相対主義に関するよくある質問
黒木さんも書かなきゃいいのに最後にいらない引用をつけちゃうんだよね。

そして、ソーカルとブリクモンは次のように述べている:

 知識人、特に左派の知識人が、社会の発展のためにプラスになる貢献をしたければ、そのための最良の道は、世を風靡している考えを明確に分析し、支配的な言説から神秘的な匂いを取り払うことだ。(略)

で、9・11直後のテーマを扱ったページでは田中宇を「面白い」と言っちゃうあたりであーあって感じ。そういうことねって。黒木さんの掲示板には菊池先生も田崎先生も出入りしていたわけで、こういう文脈においてやらないとニセ科学批判がわからなくなる。だけど、普通の人にこの文脈ひとつとってもすぐ分からないようにニセ科学批判はなってる。こんなの、相対主義云々の次元の問題じゃないと思うんだけど。
追記終り)
つまるところは、菊池先生が「信じるな、疑え」と語るならば、まずは菊池先生の言うことを、ニセ科学批判そのものを信じずに疑うところからはじめるのがネットというものなんじゃないですかと、こういうことですね。