虚実の皮肉

科学の限界 - 国家鮟鱇

一体誰がそんなことを言ったのだろうか?

ということでおっしゃりたいことはよく分かって、本当はそこが味わい深いところなんだと思う。で、たぶん、ニセ科学批判が一般に誤解されやすいのもそのあたりなようにも思う。



科学と宗教の関係の歴史なんてまで、いくらあたしゃホラ吹きでも吹きかねるのだけど、この辺の実際は学者さん個人個人の心の中で処理される問題のはずで、話を聞く側が「ははあ、、、」と察したり感じるべきなんだろうなと思う。そこが味わい深いところなんだと。


たとえば、こんな話って僕には面白かった。

 仏教は科学だ、幸福は科学になるといった香ばしい香りが、サム・ハリスから漂っているようでもあるが、どうだろうか。(略)
 どうやら、今回のハリスの研究もこの確信の一端のようだ。

科学と信仰は脳のなかでは同じ、あるいは極めて同じ: 極東ブログ
こういうことは程度の差はあれ、どんな人にもどんな分野にも言える。ニセ科学批判の人と議論していて、科学と文化が分離できないのは当たり前で、ニセ科学批判が主張したいことはそういうこととは違うんだと語ってくれた人もいた。僕はその人の言い分はよく分かって賛同できた。(でも、ニセ科学批判を誤解して乗せられた一典型ではないかとも今は思う)



次の類のコメントってブコメでも非常によく目にします。社会学玄論さんから拝借しますが、ある人は。
ニセ科学批判のニセ科学化現象 : 社会学玄論

スピリチュアルや宗教や占いの輩も何の根拠もないんだからせいぜいイーブンだろ。

またある人は。

もし尋ねられた場合は科学的な見解を言った後に宗教ではなんの実証もなしに死後の世界を信じていると言うのが本当の科学者だと思う。

前者の場合の「根拠」というのは「科学的根拠」という意味だし、後者の「科学的な見解」とか「実証」というのもそういうことが科学の立場から言えると無邪気に信じていて、それが「本当の科学者」というのですから無邪気も相当です。


たぶん当人たちにはそんな気はないんでしょうが、でも言ってることをよく読むと非常に素朴、素朴すぎてどういうことを言っているかの自覚が皆無。こういう人がおそらく少なくない。


他方で科学では事実と価値が分離されると素朴に主張する人がニセ科学批判の立場の人にはいましたな。

科学を語る者、ニセ科学を批判する者は、たいていは(無論、馬鹿は必ずいるだろうけど)事実と価値の形式的な切り分けをしていますにゃ

ニセ科学でヒトは死ぬ - 地下生活者の手遊び
確かに形式的に分けることは大事だけど、そんな素朴な話じゃないはずなんですよね、これって。

そして、ニセ科学信奉においては価値観の押しつけが隠れた目的であるとしたら(略)

「科学」は価値観の押しつけを「隠れた目的」にしてないかのような書きぶりだけど、これもそんな単純な話じゃない。じゃ何なんだとホラを吹くほどの度胸は持ち合わせてないけれど。


つまり、ニセ科学批判ってこのあたりの統一が全くとれてなかったりする。それはまだいいとしても(それぞれ意見があるだろうから)、こうなると自己弁護がいかようにもできる形になってしまっていて議論の仕様がない。いわば最強。


同じことは「まともな人は穏健な相対主義をわきまえてるから『科学主義』のような心配をする必要はない」という類の擁護にも言えて、確かにそういう穏健な人もいるけど、ニセ科学批判を煽ってる人たちの言動を見てるとそういうことがとても信じられない。たとえばホメオパシーに対する敵意の向け方は、どう見ても過剰。「認められない!」ってえらく感情的なところを見ると、やっぱりどっか「科学主義」なんでしょうね。上のコメントの人たちと、レベルは大して変わってない。


本来「ははあ。。。」と察することで意味深だったり味わいがあったりするというのは構わない。骨董品を上から下から横から斜めから見るようなもので。


ニセ科学批判の場合に問題なのは、ある時は穏健を装ってある時は詐欺は許せないからと言って都合よく自己正当化しながら結果的に人を釣りつつ(釣ってることに自覚的か自覚的でないかはともあれ)、かつ下手をすると世界観・価値観の押し付けに自覚的でないことであって、雑魚がわく理由の一つはこれだと思う。こうなると、話が違う。

Commented by merca at 2009-10-22 21:46
(前略)
 批判されるのは、自己の説のみが正しいと他者の認識や価値観を否定し、科学的価値観の正しさを押し付けてくるニセ科学批判者や科学主義者のほうだと思われます。

Commented by merca at 2009-10-24 06:53
(前略)
 たとえそれが科学的事実であっても、何か唯一の正しい真理があるという強迫観念=絶対主義で自己や他者を縛り、自己選択性や他者との関係性の幅をせばめ、多様で豊かな人生が送れないのは嫌ですね。

ニセ科学批判のニセ科学化現象 : 社会学玄論
こういう意味ではやってることがニセ科学と大して差がなくなってしまい、こんなことなら、宗教は科学の敵だ、非合理を排除すれば人間は幸福になるんだともっと高らかに宣言した方がよかった。そうすれば、主張がすっきりして支持者も純化されて、もっと分かりやすい状況になったと思う。



多様な意見があるなかで皆で合意できる点は、科学の範疇で控え目にニセ科学の間違いを指摘するということに限定されるべきだった。特に宗教意識の薄い日本では。問題は最初からそんな限定を付す気がなかったことで、あったとしても建前だけらしいのが残念至極、釣られた自分が腹立たしかったりする。


ちなみに、菊池先生はこのあたりについては普段タヌキを決め込んでいて、「ホメオパシーを信じるバカは強毒性のインフルエンザにかかって駆除されてしまえ」と毒づいた天羽先生は無邪気派、ホラ吹きの池内御大は過激派だと見るのがもっともらしい線ではないかと、これは毎度のホラかな。