ネット○○派 part4

早川由紀夫先生の登山の例は分からないと書いたが、意図を汲むなら、ニセ科学批判の人たちはゼロリスクを求めてるんじゃないか、ということなんだろう。火山調査と同程度のリスクなら許容すべきであって、もちろん子供の命と違って登山の場合は死ぬのは自分だというのはあるけれど、ま、ようはそういうことだと思う。(あとのTweetを見ても、やっぱりそういうことみたいだし)


さらに議論を敷衍すると、同程度のリスクを有するものは他にもたくさんあるはずであって、したがってそういうリスクは絶対に避けられるべきだというのであれば、法律なりなんなり強制力のあるものですべて決めてしまえば済む話だということに、結果的になる。


悪いけどそんな社会を僕は望まない。



こういう話題では、ネットで死者を悼む言葉を書く場合が多い。これが僕には不愉快でね。自分のポジションを正当化するために死者を利用しとるだろうという意図がうすら見えてきて、追悼の言葉が実に白々しく、わざとらしい。


こういう構図ははてサもよく使う。たとえばホロコーストはけしからん。まあ、けしからんでしょう。でも、それで自分のポジションを正当化するから、ああ、この人たちは本当にホロコーストで亡くなった人たちに共感してないんだな、と思う。ホロコーストで死んだ人たちの命を利用して、自説の正当性を他人に認めさせたがっとるだけではないか。そう考えると、ちょっとね。


もっとも、人によってはそれがぴたりとおさまる人もいるから、一概には言えない。



ネット○○派がよく使うこの論法は、つまり倫理を旗印にして自分のポジションを正当化してしまっているわけだ。ネット右翼だって、そういう意味ではあれで気のいいやさしい連中なんだよ。いや、ほんと。つまり、遠藤周作が昔言った「善魔」というやつに近い。


でも、そういう倫理を押しつけながら論じられると、もちろん善悪で切り分けた善の側に立って正義の旗印をはためかすこと自身の問題というのはあるけれど、なにより読んでるこちらは非常に不愉快になる。


戦中、「前線の兵隊さんたちがお国のために命をなげうっているというのに、あなたたちは何ですっ!」というような類のことを言っていた人がいたわけだ。倫理的にいえば確かにおっしゃる通りだけど、それで国を潰して、国民自身が不幸になってるんだから、どうにもならない。


ネット○○派がやってることは、これと全く同じことだということに、いい加減気がつくべきなんだが。