続・座談会に茶々を入れる

承前
水伝を道徳教育に使うべきではないのはご尤もなんだが。。。

M:疑似科学は、商売と結びついて広がっていますよね。商売につながっているのが疑似科学だと思って間違いないくらいです。商売道具になっているようなら、科学じゃないと考えてみていい。

この議論はやらないほうがいい。疑似科学側だって同じことを「科学」に対して言ってる。不毛。


ってか、まともな科学なら絶対にビジネスと結びつかないの?

Ka:いや、科学の顔をして出されたものにどういう態度をとるかが、学校教育の課程に乗せられるべきですね。学力は正しい知識の量ではない。

Ka:学力という意味では、今、知識より、考えて判断する力が求められている。

このKa氏は「上薗恒太郎(教育学、道徳教育)」先生。その言や善し、でも考えて判断する力なんて、学校教育でどうやって伸ばすの?長崎大学教育学部の入学試験では率先して「考えて判断する力」を試す試験を実践しているの?


「考える力」とか、教育学でずっと言われてたお題目じゃなかったっけ??この定番ワードそのままの結論にして、どうするの?


たぶん、「考える力」「考えて判断する力」なんて簡単にできるなら、とっくの昔にみんなやってる。むしろ「ゆとり」なんて言われて、おそらく不当な罵倒語になったりしかねない。


疑似科学疑似科学と素人が判断するのは、理屈を追えるからというよりも、専門家の意見と判断を信頼するところにあるのであって、個々人に「科学的思考力」なんてものを期待したってそれは無理というもんだ。


つまり、大事なのはまさに「知識」なんじゃないの???学校教育レベルならなおさら。


日本のニセ科学批判は建前上、科学分野に限定されてるから、この話になるとすぐに「科学リテラシーが」とか「科学的思考力が」とかいう話になるけど、それは具体性も現実味もなくて議論として無意味ですよ。たぶんね。

N:学校教育にしぼると、自分で判断できる人を育てることが本質的でしょう。どう判断するかを育てることが大切ですね。
Ka:賛成ですね。判断できる人を育てて、議論していく中から、判断をすりあわせた結論が生まれてくる。知識は忘れても、科学に対する態度、判断を形成していく態度を育てることが、社会形成にとって大切ですね。そのために疑似科学ネタを扱うこの冊子に意味があるんでしょうね。とくに教員は公共の役割を担っているのだから。

結論はご立派でも具体性なし。小中学校の先生たち、いろんな方がいらっしゃって様々な試行錯誤をしてらっしゃるけど、Ka先生がおっしゃるようなことが簡単にできるならだれも苦労してはらへん。こういう漠とした結論はごもっともすぎて意味がない。


なんでここで自然科学の知識をきちんと教えること、というシンプルな結論に落ち着かないのかね。つべこべいわずに、それでいいんじゃないの。