ニセ科学批判というカテゴリーに意味があったのか

ニセ科学批判というカテゴリーをわざわざ作る意味がホントにあったのかどうか、最近とみに疑わしいと思うようになった。それも科学分野に限定したことがよかったのか悪かったのかという意味で。日本の事情に合わせた面もあるのは分かるんだけれど、かなり無理がある。


科学分野に限定してしまったので、たとえば「科学のツラした商品を売ってる」という場合は消費者問題にしかなりえない。


ホメオパシーの類の、科学的根拠はないけれど歴史的文化的事情から受容され根付いてしまってなんとも難しいというものだと、科学的立場から主張できる範囲はおのずから限界があって、他の要素をいろいろ考えないと議論に説得力が出てこない。


ニセ科学批判として一番意味がありそうなのは血液型性格判断批判の類かなと思うけれど、でも外国の疑似科学批判みたいな宗教批判からは逃げてしまっているので迫力不足だし、だいたい血液型性格判断そのものが「差別」というにはあまり深刻な「害」がない。


最初の一つがただの消費者問題なら、あとの二つは「科学として根拠がありません、間違っています」という主張にしかならないので、素人としては、なるほど専門家のみなさんできちんとやってくださいとしか言いようがない。引っ掛かるなと言われても、素人は専門家を信用する以外に他ないのが普通なわけで。


結局、科学がいい加減に使われるのは許されないというのは、、、以前にも書いたように、あるオタクが、愛好する二次元キャラをいたぶられることが彼には許されない、みたいな感情と大して変わらない。気持ちは分かるけど、具体的にどう現実に反映させるかとなるとそれは話が別。


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あとは「科学的な態度の涵養」とか「科学リテラシーの普及」とかだけど、でもニセ科学批判が成立するのは社会的害があるからだとか詐欺だからだとか、血液型性格判断が現代で信じられてるのはまるで中世じゃないかとか、そういう理由からだって言われてますわな。


つまり、「啓蒙」みたいな要素は一般には副次的だと思われているらしい。


というより、この辺もニセ科学批判の文脈から論じるより、きちんと学校で理科を教えましょうとか、そういう地味な正論しかおそらく残らない。



そう考えると、ニセ科学批判が科学分野に建前上、限定したのは、日本の事情を考慮してなんだろうけど、実は自分で自分の首を絞めちゃってる可能性が強い。科学に限定するという禁欲的な建前をとるから、だから難しい話は専門家でやってくれということになるし、科学以外のネタ、たとえばオカルト批判は中心的な話題にはなりにくい。


そうなると、ニセ科学批判がニセ科学批判として括られる根拠は薄いように思う。消費者問題か、専門家でちゃんと議論しといてくれ、という話にしかならないんだったら、なんでニセ科学批判というカテゴリーが必要になるんだろう。


そこで、外国のSkepticたちがやってるオカルト批判とかキリスト教批判の類が実は疑似科学批判のキモなんじゃないのかと思われるわけだ。日本人には「へぇ??」みたいな感じがするけど。


つまり、日本のニセ科学批判は大事な部分を切り落として受け入れられやすくはなったけど、その代わりに疑似科学批判っていったい何なのかよく分からなくなった部分があると思う。それだけならまだしも、たぶん、ごく普通の善良な人たち組はそんなことまで考えとらんだろう。そこまで考えずに、仲間を作って群れとるんじゃないか。