ネット○○派 part292 結局「まともな先生」などいなかった

前々から気になってて、いっぺん書いたかもしれないが、こういう発言を見たもので。
https://twitter.com/#!/takanori_hirai/status/107446145814495233

@mikiki19 一部の人の「人格否定」の仕方が異常になっていますよね ← 恐らく、元から地道にニセ科学批判をしてきた科学者ではなくて、俄か知識を仕入れた連中が尻馬に乗ってるのでは?と想像しています。(略)

これと同様のことは、このブログの最初期に僕は書きました。
「まともな先生」はどこにいるか - 今日の雑談

希望的観測をいえば「まともな先生」はいいとしても、それ以外の「雑魚」がニセ科学批判をかなりの程度誤解させているように思います。

今は意見を完全に変えました。ただし、この記事に続く部分で僕はこうも書いています。

でも、そこのところを「まともな先生」たちが自覚してる気配が微塵もないんですよね。


だから、どうも、「まともな先生」ってのが本当にいるのかと、今そこのところを大変疑問に思っています。

こっちのほうにより重きを置いた考えに今はなっています。

というのも、ニセ科学批判が言っていることが本当ならば「尻馬に乗っている」人たちのことを「まともな先生」たちが切り捨てなきゃ話にならないんです。問題は「ニセ科学」であって、それ以外はわりにどうでもいいというか、二次的な問題である「はず」だし、そもそも他人に自分の主張を訴えたいなら、集団になって叩くだけでは逆効果です。


ところが、ホメオパシー批判でも見られるとおり、むしろ主導する人が結構過激というか、錯覚して「人が死ぬ」「詐欺は悪い」と言い募るだけの人が複数いるうえ、またそういう人を読み手は普通に支持しちゃってたりするわけで、とてもじゃないけど「切り捨て」てくれるような雰囲気は全くない。


つまり、「尻馬に乗っている」人たちを黙認してしまっているわけで、そうなるといくら「まともな先生」だと思ってもこれなんだから、「尻馬に乗っている人」と「まともな先生」を区別する理由は全くなくなります。


結局、「まともな先生」「地道にニセ科学批判をしてきた科学者」でも、ニセ科学批判の問題がどこにあるか、なんで錯覚するか、あるいは錯覚するような理屈になっているか、ニセ科学批判の論理がいかに危ないかという点について、全く無自覚なんですよ。もう本当にどうにもならない。

このあたりはリフレ派もよく似ていて、仮にリフレが「正しい」としても、「リフレ派」となったときに無茶言っている連中を切り捨てるということは絶対にない。味方・仲間だから、つまり党派的思考で動いているだけなので、身内と敵で扱いが変わるダブルスタンダードを平気でやる。


ニセ科学批判の場合は、ニセ科学としての対象を選択する場合に明らかにダブルスタンダードをやってるんだけれども、そこは「優先順位問題」という屁理屈で逃げたつもりになっている。逃げきれてないんですけれどもね。


結論としては、「地道にニセ科学批判をしてきた科学者」たちがいると考えるのも甘いと言わざるをえませんよと。

追記
この点で非常にがっかりするのは、結構まともな文系の学者さんたちが(一応「文系」「理系」という区分を使えば)、ニセ科学批判のこのあたりの問題をよく理解しないまま、ニセ科学批判系の人のTweetをRTしたりコメントをつけたりしている点で、これは見ていると頭を抱える。


いや、仕方がない面があるんですよ。まともな学者さんは、わざわざニセ科学批判なんて真面目に見る時間なんてないから、パッと見て信用しちゃう。たしかに、パッと見ただけだと、ニセ科学批判の言っていることはもっともに思えるんですよ。


それに、ニセ科学批判やってるというだけでRTしないとか付き合わないというのも偏狭にすぎますし、そこは是々非々であるべきですしね。


ただ問題は、無批判にニセ科学批判の主張が拡散したり、あるいはニセ科学批判系統の論者の信用が無駄に上がってしまう点にあって、これが困る。ニセ科学批判はきちんと距離を置いて見てもらったほうが、僕はよいと思うんだ。


あと、ニセ科学批判に共感している文系の学者の場合、おそらく気質として共通のものを持っているらしくて(らしいというか、おそらくそうだ)、それだけで本当に嫌になってきたりする。たまたま自然科学だから正義感覚が発動してるだけで、別になんかのきっかけがあればすぐ「俺は正しい」で群れることをやる人がいるんだろうと想像しただけで、うんざり。


このへん、見ていると非常に興味深いですよ。

追記2)
本来の懐疑主義とか疑似科学批判でいうなら、日本の「ニセ科学批判」で意味があったのかなと思われるのは、血液型性格判断あたりじゃないですか(これも以前書いたと思う)。


ただこれも、「合理的思考をしろ」という方に行くんじゃなくて、「科学を使った差別はいけない」と「差別」がダメだから血液型性格判断はダメだという方向にいく。なんというか、発想が非常に功利主義的で、たしかにそういう風に論じた方が日本人相手には分かりやすい。


ただ、そうなると、いつも書くように科学としての正誤と世間の道徳との「正しい」の二重になって、もうなんとでも言えるようになってそこから動かなくなってしまう。


しかも血液型性格判断の場合、そもそも「差別」と断じるに値するものがどの程度あるか疑問で、、、たしかに悪質な例もあるだろうとは思うんだけど、、、その意味でも「差別はよくない」ということから血液型性格判断を一直線に叩くのは無理筋で、素直に合理主義信奉の建前から叩いてる方が筋は通った。


放射性物質絡みの問題でも、つくば市の対応を「差別」だとして菊池先生が騒いでいたこともあったけど、あれも市の対応を子細に見たら「差別」と言えるほどのものかどうかはなはだ疑問で、つまり「差別はよくない」ってのが、水戸黄門の印籠みたいになっちゃてるから、安易に議論を組みあげてしまう。よろしくない。


このあたりがね。「ニセ科学批判」の限界なんですよ。