「正しい」の限界

一時期「おまえら科学教か」という突っ込みがニセ科学批判に入ったけど、これに対して、科学は宗教かというマジな返答をするとずれるんだよ、たぶんね。


それは、コアなネトウヨが「狂信」者だとかいうのと同じで、ものの言いようの次元だと思う。


ここで「狂信」という意味は「自分の主張の正しさを深く確信している」ということだ。その確信が言動に表れてるから、だから「狂信」と言われるのであって、ネトウヨ言論と宗教との関連性を議論しても、この場合は意味がない。


ニセ科学批判も同じ。


詐欺はいけない、ウソはいけない、科学の冒涜だ、ニセ科学が主張していることは科学として間違っている。どれも「正しい」ですよ。政治的右翼や左翼よりも、「相対成分」が少ないだけ余計に「正しい」。


でも、「正しい」ことがどこまで現実の言動の「正しさ」を保証するのかと。問題はそこだ。


だから、伊勢崎先生の発表で質問が出たみたいに、こういう疑問が当然出てくるわけだ。
Daily Life:疑似科学と専門職倫理

害があるかどうかを批判が許容される条件に入れているが、それだと結局社会的影響について科学者が判断することになるのではないか

こういう疑問に対して、「優先順位問題」では何も答えたことになってない。ニセ科学批判に対して投げかけられる疑問に対して、「詐欺はいけないじゃないか」とか「社会悪だから」というのは返答になってないし、けしからんものを批判して何が悪いと言いきってしまった瞬間、それは「狂信」の表れになるんだよ。



むしろ、「正しい」とか「善意」とか、そういうことで自己正当化するほうが妥協できなくなってよほど怖いんだというのは、ずーーーっと書いてきたとおりで繰り返さない。「科学教」と揶揄されたのは、そういう有様を皮肉られたんだと僕は解釈している。


で、この手の「善意」や「正しさ」にうっすら染まって疑問を感じないその他大勢について、うっすらだからこそかえって手の打ちようがないなあ、これならガチの「狂信」レベルの人間のほうがまだ与しやすいのかなあと思ったりもするわけだ。


追記
もうちょっと書くと、普通はこの辺を乗り越えることはなくて、「優先順位問題」みたいな屁理屈を信じることもない。でも、菊池先生みたいな強い強迫観念というか、「危機意識」を持ってたり、あれに共感してしまうと、「詐欺はいけない」「社会悪だ」という「正しさ」を確信して動かなくなっちゃうんです。危機意識が大きいだけ、この「正しさ」も裏打ちされてくる。


ネトウヨなんか典型で分かりやすい。日本が危ない→○○という主張が正しい→日本を救え、これだ。○○の中身が正しかろうが間違いだろうが、日本が危ないという危機意識がある主張の正しさへの確信を深める。これが問題なんだ。