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■ - 今日の雑談 https://jura03.hatenadiary.jp/entry/2019/08/18/091852
たしかにそれはもっともな話だし、わたしも彼のように欧州人のありかたを学びたいと思っている。じゃあいったい誰がそれを教えるのか、自発的に学ぼうとする人間がこの国にどれだけいるのか、というところで非常に難しい課題が残ると思う。

 

これは全くそうで、だいたい自分の身の回りやご近所さんに対して、私がここで書いているようなことを私が言い続けることすら、非常な困難を伴う。

 

単純に、誰にも理解されないからだ。

 

こういうことを言える人、言うべき人というのは、本当は日本にもそれなりにいるはずで、これは政治的に右も左も関係がない。

 

たとえば、本来ならば吉崎達彦だって言わねばならないが、実際にはそうなっていない。商社で情報を扱っていて、現場の商社マンの話も聞ける人がこういう認識でいるということは、普段商社の人間がどういうつもりで商売しているかよく分かるわけで、

 

「そんなつもりでいるんだったら、日本が戦後に稼いだカネは全部吐きだして、最貧国になろうや、それで餓死するなら俺も餓死するわい、皆で死のうや、お前らふざけとんのか」

 

と、私もそういう気分になる。

 

カネと倫理観念は常に相伴う。

 

東京にいてそれなりのポジションにいる人がこれでは、あとは推して知るべし、と言わねばならない。

 

いかに困難な課題であることか。

 

・・・

 

ただ、こういう問題があるという認識を、ごくわずかな人なりともまずは確認しておくことは必要なことではないかと考えている。

 

戦争の話でいえば、自分に都合のいい、甘い話しか流通しなくなっている大きな理由の一つは、日本語圏がそれでほぼ完全に閉じられてしまっているということがあるには違いない。外と内とで認識が違いすぎるのに、誰もそのことに気が付かないし、気が付きようもなくなっている。

 

もっとも、これは今の世代だけに責任を帰せられるものではない。私たちの祖父母やその上の世代たちからして、戦争については扱いがすでにいい加減で、その尻拭いを下の世代がさせられている面があり、そう考えるとひどい話だ。

 

しかし、そうは言っても、日本の外における認識と内における認識の差それ自体すらもう分からなくなってしまっていることには変わりはなく、本当はもっと言われないといけない。

 

つまり、「課題」それ自体をまず「課題」であると認識するところから始めなければならないのだろうけれども、それすらも大変だ。

 

・・・

 

しかも、この問題はかなり根が深い。

 

日本は欧州・米国から多くのものを輸入してきた。政治制度や「民主主義」ももちろん、日本が輸入したものに入る。

 

制度や形のあるものは、それ自体を持ってきたらいいので容易だが、たぶん、日本は一番大事なものを輸入しなかったし、結局できなかった。

 

それは、制度を運用する「精神」そのものとしか言い表せないものだ。「精神」がしっかりしていないと、正しく運用できない。法律の文面だけいじってもどうにもならないものがあり、そのことをほとんどの日本人は理解していない。

 

楽譜に書かれてある記号をその字面通りに読み取ることは、ちょっと慣れれば誰にでもできる。楽器を練習すれば、楽譜に書かれてあることをそのまま音にすることは可能だ。しかし、それは楽譜を音楽として音にすることとは全く別の話であり、その差をよく認識しないといけない。。。という話を、普通、学校の先生は教えないし、教えられない。学校の先生自身が理解していないからに他ならない。

 

それと全く同じ問題が、他の分野にも言える。

 

内と外の認識の差が生じることには、単に言語上の問題だけではなくて、「精神」の使い方や姿勢の問題にあるようにしか私には思われないわけで、こういったことは日本では誰も言っていない、ことはないと思うが、たいてい自覚されていない。

 

話がここまで広がり、大きな問題になってくると、どうしようもなくなる。

 

・・・

 

このような袋小路に入ると、私はいつも次のように考えることにしている。

 

そこで実践として大きなことをやろうとするのは常に偽物だ。目の前の現実と格闘しなければならない。

 

なので、私は身の回りの人たちと少しずつ格闘することにしている。少なくとも私の周りについては、そのようにして、少しでもよいので、これはこういうものなのだということを広めていければよいと考える。

 

なによりも、まずは子供だ。大人を変えることは不可能だが、子供たちだけはなんとかしたい。しなければならない。

 

そのためにどのように振る舞えばよいか。どのように子供たちと接すればよいか。

 

私は全く無力だが、無力なりに、徒手空拳もやむを得ない、なんとか抗いたい。そのように考えている。

 

 

かんべえの不規則発言の8月15日に気になる発言があった。

かんべえの不規則発言


○「戦争の記憶を風化させてはいけない」というのは、反対しにくい正論である。しかしそれってやっぱり無理があるのだ。時間がたてば、人は必ず忘れる。実体験した人もどんどん減っていく。できもしないことを、できる振りをするというのは精神衛生上、よろしくない。特に子供たちに向かって、そういうことを強いてはいけない。

言いたいことは分かるところはあり、一方的な平和主義は全く非現実的であるにもかかわらず、その主張を維持するために戦争経験を持ち出すレトリックは私も大嫌いだ。

 

ただ、それでも、これはいろいろ無理な議論だと思うし、今の若い世代のことをよく分かってないのではないかと思った。

 

そもそもを言えば今の日本が成立しているのはあの戦争で負けたことにあって、大戦を経験したものがいなくなっていくとしても、記憶としては永く保持しなければいけない義務が私たちにはある。

 

忘れないようにする努力を欧州ではしつこくやっていることを吉崎が知らないはずがなく、そういうことはやっても無駄だと吉崎は欧州人相手にも言えるのだろうか。これが一つ。

 

また、保持されねばならない記憶がいかなるものか、という問題がある。大戦を実地に経験した世代がほとんど死んでしまっている中、歴史をよく知るということがなくなってしまった。

 

その代わりに残ったのが、歴史をネタにしたプロパガンダで、これは今に始まった話ではなく、かつ左翼も右翼も関係ないわけだけれども、一般的には流通しているのがたいていこの種のものであるために、理解が全く偏ってしまっているという問題はある。

 

今の若い世代なぞ、このご時世なら右方向からのプロパガンダに完全に染まっている子が多数になっていても全くおかしくない。いわば、変な歴史を「子供たちに強いている」わけで、こんなことがあっていいわけがない。

 

むろん、問題は子供ではない。大人が愚かを極めていることにこそ、問題がある。

 

大学の先生たちが、天下りに怒っているのはよく分かる。役所から天下った人たちに支払われる給与で、若い人たちを何人も雇えるし、様々に善用できるからだ。

 

しかし、なぜ同程度に次の問題について怒らないのか、私には全く理解できない。

 

・・・

 

森友・加計問題で明らかになったのは、私立学校だと十分にビジネスとして成立していて、そのためにはあらゆるコネや手段を使うし、それだけの利益が見込まれる、ということだと思う

 

有力な政治家と親交を保つために、年に1億の交際費を何年も使ってもペイできてしまう教育事業とはなんなのだろうか。

 

これが私には分からない。

 

最近も、吉本に教育事業として100億つっこむという話が出ていたが、それだけ聞くと確かに愚かを極めているわけだけれども、これも結局、いろんな形の公的援助・支援を前提にすれば儲けが出ると思われているから、だから吉本のような企業が参入する。

 

同じことは、高校の英語検定試験や大学入学試験をめぐるいざこざについても言えるのだろう。

 

別に教育事業が絶対にビジネスとして成立するべきではないとは言わない。教育者やそれに携わる人全員が仙人であるべきだ、とは思わない。

 

ただ、物には限度というものがあるはずだろう。

 

特に教育事業はそうそう大きな利益が出ないのが本来のはずで、にもかかわらず、政府行政とつるみさえすれば大きな利益が上がる、そのためにはなんでもするというのは全くおかしい。

 

森友・加計を筆頭にしたもろもろは、本来公教育に投下されるべきリソースが変な方に回されていることしか意味せず、大学の先生たちがよくこれだけ侮辱されて黙っていられるものだと私は思う。

 

もっとも、私は私立学校だけではなく、予備校や塾についてもかなり批判的な考えを持っているので、その分は差し引かなければならない。

 

しかし、子供たちのことを第一に考えるならば、今のような話が、つまり大人たちの一方的な都合で教育が事業となっているような現実は到底認められるはずがない。大事なのはカネだけで、子供の未来でもなんでもない。

 

それは、天下りもそうだし、その他のさまざまな問題についても同じだろう。

 

そういうことを、国立大学のプロフェッサーたちが真面目に考えたうえで、待遇の悪さを愚痴っているようには、到底見えない。

夏の暑さが異常になってきている。

 

地球温暖化対策」と口で言うのは簡単だが、要するに経済活動を抑制しろということに他ならない。

 

そんなことが人類にできるとは私には思えない。

 

基本的人権の問題も気になっている。温暖化の要因として、人間の呼気や排出するガス、また生命維持に関わる諸々が問題になったとして、じゃあ人口を10億人単位で減らしましょうという話にはできない。

 

基本的人権を維持しながら、これ以上の温暖化を抑制することが本当に可能なのだろうか。

 

最近、私が生きている間にこの文明が終わるような気がしてならない。終わらないかもしれないが、とんでもないことになるのではないかと思っている。なにより、子供たちの将来はどうなるか。我々の無責任と面倒を一方的に背負わされるのが子供たちだ。

  

こういったことは考えるだけ無駄な不安だ。人類はいままでだって文明の終焉を何度も経験してきた。今度の終焉もそのうちの一度でしかない。しかし、不安は常に念頭にあるし、そうあるべきだろうと私は考えている。

「慰安婦」トリエンナーレが踏みにじった人道と文化 「ヴェネチア・ビエンナーレ」以来の芸術監督鉄則3か条(1/10) | JBpress(Japan Business Press)

 

トリエンナーレ「計画変更」は財務会計チェックから 税金原資:「表現の自由」水かけ論より問われる財政規律(1/9) | JBpress(Japan Business Press)

 

シンポジウム「2019年‐2020年、アートは異物を受け入れるのか」開催のご案内

http://www.city.kobe.lg.jp/information/press/2019/07/20190719073003.html

 

神戸新聞NEXT|総合|津田大介氏招くシンポ、中止を発表 主催者側

 

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愛知の当該展覧会は再開したらいいじゃないかという声をみるんだけれども、どこまでも安易な発想だと思う。伊東乾の言うように、そもそも予算の問題をクリアしなければならない。警備員や入場者の手荷物検査などの費用は当然公金だが、事前に想定されてないはずである。

 

そういうことを誰も考えていない。

 

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問題はいろんなところにあって、役所は動員人数しか見ないので、津田大介のような名の知れた人を担いで、目立つことをやって動員を稼げたらいいや、くらいにしか考えてなかったのではないかと思う。

 

リスクをちゃんと考えていないことの問題は、別の議論でもやっぱり出てきて(それも津田がえらく推奨していたわけだけれど)、とりあえず芸術に限定すると、役所の人たちのほとんどは芸術に全く無関心で、芸術家にリスペクトがない。名古屋のような大都市でもそうなんだったら、私の住んでいるような地方都市はなおさらそうだ。

 

一度、高校生に世界一の演奏家がレッスンを付けるという公開講座があり、見に行ったことがあるが、後ろにいた公務員のおっさん(たぶん学校の先生)が、いきなり直接介入して生徒に指示を出したのでびっくりしたことがある。

 

この地方都市では、世界一の音楽家よりも、学校の先生のごとき地方公務員のほうがはるかにエラい、という現実をよく表した瞬間だった。

 

これも学校の先生だから特殊というよりも、公務員はだいたいそういうもので、「田舎の田んぼの世話のことしか考えてない」などと言われたりする。芸術に興味も敬意もなくて当たり前だろう。

 

しかしそれも、役所の人たちだけ責められないのは、結局ごくごく一般の人たちの芸術に対する無理解がひどい、ということなんだろう。

 

芸術や芸術家に対する敬意が全く欠如している。

 

一連の騒ぎも、最終的にそこに問題があるように思っている。政治の問題は除外するとして。

 

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なまじっか芸術監督なんてものになってしまったので、神戸の「イベント」でもこういうことになってしまう。

 

シンポジウムの中止は妥当だ。それは政治的にどうというよりも、芸術に特別な認識もなく業績もなく、単に神輿として担がれただけの人に何を語らせてるの、という問題があって、失敗したんだからそりゃだめでしょうと。事故があってもそれでもなお傾聴するべき見識がある、というような重みがないので、擁護のしようがない。そういう意味では、愛知でコケておいてよかったのかもしれない。

 

世の中には、「でも○○はできたんだから、それは功績でしょ」という意見があるのも見る。

 

そういうふうに認められる話は世の中にたくさんあることは重々承知の上で、もういいよ、もういいよ、という気にしかならない。

ロシアで、Olga Misik という17歳の女の子が、デモの最中、警察の前でロシアの憲法を読み上げるということをやったそうで、これがヨーロッパのニュースサイトでは軒並み取り上げられている。日本でどうなっているのかは知らない。

www.independent.co.uk

 

ロシアの国内情勢を知らないし、ロシア語も分からないので、表面的な情報だけでものを言うと、

 

学生は政治活動せずに、デモなんかやらずに勉強しろなどと、ぬけぬけと言う「大人」ばかりの日本で、こういうことは考えられない。

 

あんたがた、ネットでは何の心配もしないで自由だなんだというけれど、いざという時にこの17歳の女の子と同じようなことができるか?

 

今の日本人は、ろくに抵抗しないどころか、抵抗するのは「大人」ではなく、体制に(あるいは大勢に)順応するのが「大人」な態度とか何とか言ってバカにするだけでしょう?

 

無論、私はこういうことができるだろうかと思って自問自答する。どこまで抵抗できるだろうか。今でも多少は目の前の現実にいろいろ抵抗している。現実をより良いものにすると、必ず抵抗が伴う。対してネットではなんにもできない。

一騒動起こして、問題提起だとかいう手法、それ自体がダメだとは思わないけれど、もうそれいいから。ほんと、もういいから。それで宣伝すんの、やめてほしい。

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炎上すべくして大炎上「あいちトリエンナーレ」 京アニ「誤解」につながる少女像展示はポストトゥルース政治(6/6) | JBpress(Japan Business Press)

 芸術を生きている人間は、多くがそこで人生を懸け、命を懸けて、営々と頑張っています。

 現状の展開は作品や作家に対してあまりに失礼であるし、無責任とみる人もいるでしょう。

引用したいところはいろいろあるが、ここに結局尽きている。

ネット雀のおしゃべりを見ていて、総じて芸術をなめてるとしか思えない。あんたたち、人の人生、なめとるだろう。

政治と芸術の関係について、あるいは日本の状況について、ナイーブすぎることを言っているのが多すぎる。なんっちゅう素朴な認識で今まで生きてきているのか。

脅迫される側と脅迫する側なら、脅迫する側が悪いに決まっているとか、信念を貫いて周りを巻き込むようなのはイヤだとか、そういう大人らしい賢しらを言っているのも論外。話にならない。

南京大虐殺のオペラがあるが、新国立劇場でやれるものならやったらいいと私は思う。やると決めたら、あらゆる準備をして、どういうクレームが来ても跳ね返す気でやり通す。それができないならやらない。実際、ドイツで上演できても、日本で上演はない。日本は昔から(今だけじゃない)そういう国だし、そういう状況だ。そういう認識がない、ナイーブすぎる人間が多すぎる。

やるなら腹をくくってやる、やらないならやらない。腹をくくれないなら、最初からやらない。

炎上まで計算済みで、被害者面して「問題提起になりました」では、芸術を侮辱しすぎ。

これを一旦決裁した役所の人間は、一旦決めただけでも公務員のわりによくやったと誉めようかとちょっと思ったが、たぶん、話題作りとか動員人数を稼ぎたいとか、そういう下らないことしか考えてないはずで、到底誉められない。考えてるなら、最初からあの人選はない。

この一件だけではなくて、他のことにも通低している態度。現実に対して、なめすぎ。

みんな、普段どんだけ気ぃ抜いて、油断して、ぼんやりして生きてんの。

芸術以外も、いろいろなめてる人間が多すぎる。いろいろ見込みが甘すぎる。

おしゃべりは目の前の現実を変えん。現実に向き合うこととおしゃべりは違う。ふざけとるんか。