国会議員の介助の費用は、れいわが持つべきじゃないかな | 弁護士早川忠孝の一念発起・日々新たなり 通称「早川学校」

介助を要する重度障碍者の方が職に就いて収入を得るようになると、国費をもって介助者を付けるという措置が停止になるということは知らなかったので、これを何とかしてもらいたい、というのは一つの重大な問題提起ではある。

「知らなかった」というわけではないはずだと思う。普通、こういう障害者の受給資格の認定はそれなりにやるはずで(税金を使うんだから当然だ)、条件を知らなかった訳がない。

最初から分かっていることなので、極めて杓子定規に考えれば、では最初の申請はなんだったんですかという話になりかねない。

もちろんこれは極論で、今回の場合はうまい工夫をするんだろうが、普通の人が同じことをやったら、世間もどういう反応になったやら。

こういうのが社会の前進だとは、私には思えない。いいことだとも思わない。

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私の身の回りのことを考えても、障害のある人本人というより、周りの人のやり方に辟易することがある。私はそれがいいやり方だとはまったく思えないし、それで世の中が良くなるとも思わない。というのも、辟易させられて観念した人が結局、いろんな苦労を背負いこまされるだけで、他の人は知らんふり、という結果が目に見えているからで、それは社会の前進とは言わない。

できないものはできないという時も、かなりはっきり言葉や態度で示さないといけなくなることもある。好き好んでそうやっているわけではない。

このところ医療の世界を垣間見ていることもあるけれど、子供の時から私はこういうことにかなりうんざりしており、子供ながらに世間の無責任ぶりに呆れたものだ。知らないうちにいい経験をしたと今は考えているが、たぶん、そういう経験を持たない、幸せな人が世間には多いのだろう。

https://twitter.com/tsuda/status/1155458427012804608

津田大介@tsuda
これで制度が即座に変わったらそれだけでも彼らが国会に行く意味はあったということだな。

臨時国会に「登院できない」重度障害者への制度の壁

記事を読んでも「登院できない」理由が私には理解できない。

 

仕事ができないことを理由に行政の訪問介護サービスを受けているのに、仕事を始めてしまうのでこれまでの介護サービスが受けられない、というのは当たり前の話だ。

 

そこの原則を矯めると、たとえば公平性の問題などが出てくるのではないだろうかという疑問をただちに思いつく。

 

「登院できない」理由が分からないというのは、介護サービスは別のものに切り替えたり、私費で賄えばいいのではないかと思うので、登院できないのではないのだろう。

 

現実にどういうふうに話を落とすのかはよく分からないが、これで「彼らが国会に行く意味があった」とは私には思えない。

 

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障害者を議会に送ることそれ自体は、特に珍しいものとは思わない。国際的にはドイツのショイブレ財務大臣は記憶に新しい。トレードマークとなっている車いすで、EU財務相会議ではいつも怖い顔をして、目を光らせていたものだ。

 

日本でも八代英太車いすの議員・大臣として有名で、八代は重度障害者が国会議員になることに好意的なコメントを出している。


以前の参議院選挙で、自民党乙武洋匡を候補にしようとしたことがあった。私はこの人が出始めたときから全く敬遠しており、障害の程度・有無とは関係なく批判的なのだけれども、たぶん、議員が務まるギリギリがあの人あたりではないか。それでもどうかと思う、正直言って。

 

その自民党ですら、それ以上の障害や疾病を抱える人を選挙用の目玉に擁立はしなかった。

 

ただし、山本太郎がやったことを、仮に自民党がやれば、いま批判的な連中には無理矢理擁護支持しまくる輩がうじゃうじゃ出てくるのだろうと想像するだけで不愉快である。

 

無論、その反対側についても同じ。

 

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党派的に批判する人たちは論外として、いわば当事者の立場から疑問の声がネットには上がっており、実名による記事ではない点を差っ引いたとしても、私は基本的にこの人たちに同感だ。それは一応私なりの理由はある。

 

この数年、私は思いがけず医療の世界と付き合うことになって、医者の苦労(と悪いところ)がなんとなく分かってきたところだが、難しい問題の一つは重い障害や重篤な疾病、精神疾患を抱える患者さんの受け入れについてだ。

 

患者さんの疾病障害の程度や、医者の専門分野、治療内容にももちろんよるが、私の関わっている世界では、重度の障害や重篤な疾病を抱える患者さんたちは、開業医からほとんど診療を断られているのが実態だ。(ひどいケースでは、つい最近、大学病院からほったらかしにされているのではないかと疑われる人がいた)

 

理由は障害者差別である場合もひょっとしたらあるのかもしれないが、まず100パーセント、万が一の場合の責任を負いきれないからだ。リスクが大きすぎるのである。

 

かつ、治療内容によっては、医師の身体的負担が大きすぎる点も挙げることが可能だ。

 

また、患者本人や医師のみならず、その医院で働く人たちの安全も当然に考えなければならない。医院で働く人たちは、様々な危険にさらされている現実がある。

 

そのため、いかに設備が整っており、バリアフリーもばっちりで、介助・介護の方がおられるにしても、大きな病院でもない限り、診療を断らざるを得ない場合がある。

 

と書くと怒りだす人がいるに違いないが、ちょっと待ってもらいたい。そういう医者を批判・非難することは容易なのだが、私には「それでも診療しろ」と主張する人たちの方がはるかに無責任だと思わざるを得なくなっている。

 

これに対しては、たとえば保険点数を特別に上げるなどの措置は当然考えられるところで、カネさえもらえればやる医者もいるにはいるんだろうけれども、どんなにカネを積まれても、無理なものは無理だ、別のところに行ってくれと言う方がはるかに良心的で、私が医者だったらそう言うよな、という場面はたびたびある。

 

もちろん、病院と議会では何もかも違うので、同じように論じられない。

 

しかし、バリアフリーは完璧で、人員も整いやすい、普通のそこらの病院でこうである。万が一の時のことを考えて動くのが当然だと私は思うのだが、

 

ネットを見ていると、あれだけの障害や病を抱えている人たちなのに、そういうことを考えて反応している人がどれくらいいるか、大変に心もとない。

 

山本太郎とそのブレーンたちは、そこまで考えているんだろうか。

 

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もう一点は、負担などのしわ寄せを一部の人に押し付けるのは間違っているということで、これはmachinery さんの記事を引用する。

 

machineryの日々 障害者と国会議員の役割

国会をバリアフリー化するというのは、一部に負担をしわ寄せすることではなく、全体の負担を減らしつつ、それぞれ少しずつ負担し合って個々の負担を減らすことであるべきと考えますが、そこまで議論がすすむのかは極めて疑わしいと思われます。

この言葉に尽きている。

 

私は、健常者たちがカネも手も出さず、他人に負担を押し付けておいて、あとは知らんふりか、せいぜいその障害者が何かやったときに感動して喜んでいるだけの場面を、ウンザリするほど見てきている。

 

私たちが問われているのは、日常の場面において、障害や疾病の程度の軽重に関わりなく、ハンディのある人たちに対してどう向き合うかであり、具体的にどういう行動をするかだ。普段何もしない人たちが、国会の様子をみて感動したって、私は

 

「そりゃあよかったですね」

 

としか言いようがない。普段、妊婦にすら席を譲らない人たちが何を言っているのかと。

 

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八代英太は同じ障害者としてエールを送っているが、しかしその彼にしても、

 

元祖車いす議員・八代英太氏が語る、重度障害者が国会に行く「意義」 : J-CASTニュース

「それが選挙戦略であってほしくないと思う」

とくぎを刺している。

 

しかし、実際のところ選挙戦略にしか見えない。 障害者の声を直接議会に届けるためには、何もあんな重い障害や病気を抱えた人でなければならない必要性も必然性もどこにもなかったからだ。

 

私は、やはり次の問題を、特に政治家の人たちはもっと真剣に考えて欲しいと思っている。

 

参院選を終えて: 石破茂(いしばしげる)ブログ

  島根出身の自民党候補である三浦氏は、今回導入された「特定枠」によって比例名簿上位に搭載されて最初から当選が確実視されたものの、自分の訴えも出来ず、投票用紙に名前も書いてもらえないという摩訶不思議な選挙活動しかできなかったこともあり、島根の投票率も過去最低となりました。

この「特定枠」がおかしいという指摘をあまり見ない。もちろん鳥取石破茂がそれを言うかとは思えども、しかし国会議員も「摩訶不思議な選挙活動しかできない」と言い出す「特定枠」とは何なのか。

 

八代英太だって、いくらテレビの有名人とはいえ、最初は参議院の全国区で80万人以上の人に自分の名前を書いてもらっているのだ。

ポピュリズムポピュリズムと言われ過ぎると、なんでもそういうレッテルを貼る形になるため、何を言いたいのか具体的に言うべきだという話を見た。

これは非常によくわかる話で、今の話に簡単にファシズムだのヒトラーだの言うのはおかしいと、このブログでも何回か書いたが、それと同じことだ。

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ポピュリズムの定義なんぞもちろん私なんかにはさっぱり分からないわけだが、今ならネットの利用を考慮にいれる必要があるんだろう。

いつも言うように、古くは人権擁護法案反対運動はネットを利用した政治的扇動・動員だった、と私自身はそう信じている。

今ではたとえばイタリアの五つ星運動の動員の仕方はきっと検討のし甲斐があると思う。あれはマーケティングを完全にやっていて動員している。

今は恐ろしい時代で、人それぞれに欲しがりそうなものの宣伝が個人にダイレクトにできるようになっている。それが単なる商品であればまだしも、政治的動員のためにマーケティング・宣伝の高度な手法が利用されているとなると、それって本当に政治なの?と私なぞは思ってしまう。

一日中スマホを眺めている人が少なくなく、それだけ動員・扇動のための宣伝は効くのだろうが、宣伝される方から言えば、これは立派な洗脳だろう。

ではどうするかと考えても、私にはとても答えは出せないわけで、とにかく、こんなことで本当にいいのだろうかとは常々考えてはいる。

このところ選挙の度に、投票先がなくて棄権するしかないわたしは、本来ならば自分が政治家になるのが誠実だと思うが、それはしんどいし、いきなりはできない。

だからまず、身の回りの小さな世界を整えて、その小さな世界だけでも守りたいと思っている。大きくなるならば、自ずから大きくなるだろう。

青年会議所なんぞが、国がダメになると我々の生活がダメになる、だからまず国にしっかりしてもらわないといけない云々と、露骨な国家主義を訴えて平気でいるが、似たような感覚を当然のものとして持っている人はたぶん多い。

しかし、国が破産しようがどうだろうが、私たちはそれとは関係なく生きていかねばならない。

普段そういうことを考えながら、生きている。

政治の話は、せいぜいその次の話でしかない。

それでも、愚にもつかない繰り言を、延々とここに書いているわけだが。

小幡績PhDの行動ファイナンス投資日記:サマーズ、スティグリッツのMMT理論批判が誤っている理由

財政赤字が削減できないのは、少なくとも先進国では日本だけで、EU加盟国はGDP比3%以下という条件を多くの国が達成しているし、それぞれの国内に批判はあるものの、最終的には実現するか、実現する方向へ向かった。あのイタリアですらそうなのである。 

 小幡績の議論そのものはちょっと置いておいて(いつも私はそのつもりで眺めるんだけれども)、イタリアも財政規律を守らざるを得ない状況になっているというのは、事実だ。

 

もちろん、批判は大いにある。予算編成でいつももめる。必ずブリュッセルから注文が付く。

 

それでも、結局、「3%」を外れて予算を組むことはできない。

 

イタリアで今の政権が誕生して、日本のtwitter で「イタリアでも財政を出す政権ができた!」と書いている人を見かけたが、とんでもない話で、ポピュリズム政権ができても結局こういうことになってしまうのだ。

 

その大きな理由は、国債が売り込まれるとイタリアの財政が持たずに破たんしてしまう、イタリアが破綻するとユーロ圏が破綻する、そういう恐怖をほんの7年8年ほど前に経験しているので、今の政治家はどんなに口では無茶を言っても、実際のところは限度を超えられないでいる、ということなのだと思う。

 

もちろん、日本とイタリアは背景が全く違う。財政規律については議論も大いにある。他方、EUからイタリアが受け取る予算もあるだろう。

 

私が言いたいのはそういうことではなくて、ひるがえって日本でイタリアのような財政運営をしようと思ったら、どうなるか。

 

日本で財政赤字GDP比3%以下になったのは、リーマンショック以後一度もなく、それ以前も、2006年、2007年に若干割込めただけだ。

 

イタリアがどういう予算編成をしているのか、推して察することができようというもので、日本はそういうことをしていない。

 

そういうわけで、私の目から見ると、

 

「日本人って、舐めたこと言ってるなぁ」

 

としか思えなかったりする。

ポピュリズムを経済要因だけで語ることができるかというと、きっとそうではないのだろう。

 

ファシズムが経済要因だけでは説明できず、他の社会的・文化的・心理的背景(時に文明史的背景)を考慮に入れないといけないのと同じことだ。

 

逆に経済要因だけでもなんとかしたら、ファシズムにはならなかったかというと、これがよく分からないが、ファシズムにならなくても、なんか別の変な事態になっていたんじゃないか。ようは、経済問題だけで云々できるほど、単純な問題ではない、ということは言えそうに思っている。

 

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ポピュリズムというとすぐ、ドナルド・トランプとかBrexitとかとイメージが直結して、たとえば「排外主義」といった要素が直ちに思い浮かぶ。つまり、右派による扇動というわけだけれども、ポピュリズムは必ずしも右派のものだけではない。

 

イタリアの五つ星運動は立派なポピュリズムだと思うが、あれは右派のものかと言うとそう簡単に言えなくて、左派に近い部分もある。

 

五つ星運動で面白いのは、むしろそういう政治的党派性の色合いを表向き薄めて、「市民”cittadino”」を前面に押し出したところがポイントだったように私は思っている。だから、右でも左でも、世間に受けさえすれば何でも来い、という面がある。

 

逆に右でも左でも、既成の政党は基本的に断固拒絶する。だからベルルスコーニはもちろんのこと、民主党とも連立はできない、という話になる。

 

あとイタリアの文脈では、たまにこの種の政治団体が噴出することがある。戦後直後にもそういう運動があったし、ベルルスコーニが政治家になったときに「一代で財を成した叩き上げの実業家」というのが大きなセールスポイントになったのは、「非職業的政治家」だからで、これもやっぱり同じ文脈で考えられるんだろう。

 

いずれにせよ、ポピュリズムというのは、右派に限ったことではない。左派もポピュリズムがあるわけで、そこを無視すると、やっぱり党派性に堕した下らない議論になってしまうんじゃないかと思う。

私はポピュリズムが大嫌いで、「もっと真面目にやらんかい!」といつも思うのだが、左派ポピュリストが障害者を担いだ件は、みんな本当にどうかしていると、腹立たしい思いが拭い去れないでいる。

 

ネットで一番言われているのは、

 

「それでも、国会が障害者対応でバリアフリー化するだけでもすごいことだ」

 

と「功績」として認める人が少なくないことだ。これは全く間違っている。

 

まず第一に、今までに車いすの議員も大臣もいた。だから、その程度のバリアフリー化はすでに達成されているはずだ。

 

第二に、ハード面でバリアフリー化したとしても、身体に重い障害のある障害者や重篤な病気を抱える人を受け入れられるかどうかは、全く別の話だということがほとんど理解されていない。

 

障害がある人には、その障害の部分さえカバーしてやったら健常者と同じように活動できるという人もいるだろうが、左派ポピュリストが担ぎ上げた人たちはそういう次元を超えている。

 

私は身の回りの問題に向き合っていて、施設が完璧にバリアフリー化しても、受け入れられないものは受け入れられない、できないものはできないと、はっきり断らねばならない場面があるということを知っている。

 

介助・介護が付けばそれでいい、という問題ですらない。特にALSの患者さんは、今後進行することも考えられるわけで、そうなる時にどこまで議員としての職務が全うできるのだろうか。

 

仕事以前の問題として、たぶん生きることそれ自体が大変になってくるのではないかと思うが、どうだろう。

 

いずれにせよ、ハード面の改善や、介助人をつけさえすればよい、という安易な発想は無責任にすぎるし、それをもって「功績」とするのは論外だとしか言いようがない。

 

第三に、「障害者」というだけで下駄をはかされすぎているということだ。

 

障害のある人たちの苦労が大きいのは分かる。いろんな現実があってそれを直接国政に伝えるべきだというのも理解できる。

 

しかし、そのことと、障害がある人が議員にふさわしいかどうかは全く別問題だ。

 

無論、今後をよく見ないといけない問題には違いないが、世間では「障害者」と言うだけであまりにも無条件に甘くなる。それに私は全く反対だ。このことは以前も書いた。

 

最後に、結局、障害者を利用しているだけではないかということに尽きる。

 

本人が納得しているからいいではないか、という意見が分からないわけではないが、それは障害のある人に対して真面目な態度ではないと健常者である私は思う。そういう態度は私は絶対に取りたくない。

 

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「障害者」というだけで感激する人間が多いのに、私は白けた思いをしている。

 

しかもこれが、左派の所業なので、いくら何でもこれはないだろうとしか言いようがない。

 

右派のポピュリズムに私は明確に反対するが、左派のこのような所業にも全く反対だし、ポピュリズム競争をこれで加速させてどうするのかと思う。

 

日本にも、ポピュリズムや、有権者が甘やかされている状態をもっと批判する人がいてもおかしくない。ポピュリズム競争で、まだましな方を選択しろと言われても、私はそんな選択をする気は一切ない。

 

かつて冷戦時代に、インドロ・モンタネッリが、「鼻をつまんででも」DCに投票しようと書いたことがあったように思うが、私はそこまでする気にすらならない。