政治家とも行政とも密接に関係している、日本を代表するはずの企業が、暴力団とズブズブだ、ということがあまねく知れるということは(最初から知れているにしても)、普通に考えるとその時点でその会社自体がどうにかなってもおかしくない。

 

倫理的には実際、そうなるべきだと思うが、そういう問題が一切合切、反故にされてしまっているようにしか見えない。

 

もちろん、これでいいわけがないんだが、これに手を貸しているのが実は、

 

「麗しき芸人仲間の連帯」

 

や、

 

「追い詰められた男たちの窮余の一策に感激する周囲」

 

だったりする。

 

もちろん、反故にした方が都合がいいからこうなっているわけで、その都合の良さは何も当該企業にだけ当てはまるわけではない。

 

かくして、倫理的な問題を完全に忘却の淵においやってしまっているのだが、こういう話が今の日本にはあまりにも多すぎる。

 

倫理観念にあるはずの骨のようなもの、この一線だけは超えてはダメだ、あるいは超えるべきではないのではないかという感覚がなく、ぬかるみのように、どこまで行ってもズブズブだ。

 

・・・

 

私たちは生きている中で、日々、一瞬一瞬、何らかの倫理的な問題に常に問われており、瞬時の判断をその場その場で行っている。

 

法的な問題はさて置き、私たちの社会の倫理観念はどうなっているのかが、こういう場面で出てくるのだと思う。それは森友問題でもそうだった。法的にはともかく、首相が、騙されたと言い切ってそれで許される倫理観念とは何か、私にはまったくついていけなかった。

 

私は芸能問題に興味を持たないが、私たちの倫理観念の一つの現れとして、ことを眺めている。政治が明らかに関係しているわけで、私たちの税金の使途の一つがここだという認識を、もっと持つべきではないか。

 

私の身の回りは、ヤクザも部落も抜きにできない環境だ。だからこそ、他人事としてとらえられないでいる。

前々からよく分からないのが、日本の首相が維新の会とつるんでいることと、吉本興業と密接な関係を持っていることで、この二つの要素は基本的に同じ線で考えるべきものと思っている。

 

これに森友問題も重なる部分もあるわけだが、まあろくなものではない。

 

あらゆる情報が集まるはずの首相が、何も知らなかったなどと無責任なことは言ってはならないと思うし、言わせていいわけがない。本当に何も知らない、分かってないのであれば、愚かにもほどがあるとしか言いようがない。

 

・・・

 

私が気になるのは、本当は表に出てきてはいけない人たちの、日本語の使い方や感覚、倫理観念や上下関係といった目に見えないものに関することで、こういったものは、ごくごく普通の人たちとは一線を画するべきものだろう、と私は思っている。

 

先日来、大騒ぎになっている吉本興業の話など、メディアに大物然として出てくる人の出身が部落なので、振る舞いが完全にそういう地域の人の振る舞い方のまま、無批判に垂れ流されてしまっている。

 

それ自体に問題はないが、これはかなり特殊な世界の人たちの間で通用するべきものであって、一般の人たちと無関係のことだということをよくわきまえるべきではないか。


これらの諸々は、網野善彦流に言えばまさしく「異形」で、それが普通の顔、当たり前の顔をしているどころか、むしろ称賛される気配すらあるわけで、おいちょっと待てと私なぞは思う。

 

「異形」が「異形」であるには、「異形」ではない部分が厳然と存在しないと「異形」にならない。

 

昔は、興行とやくざの関係などは当たり前のことで、今NHKに普通に出ている、善人然としたある落語家など、30年以上前には暴力団の宴会に営業で出た話などを大阪のテレビでしていて、大いに笑いをとっていた。見ているほうも、それはそういう世界のものという線引きがあったものと思う。

 

その線引きがあやふやになっているうえ、ただの芸能事務所が日本を代表する企業然とした顔をしだしたために、余計にややこしい話になっているらしく、それはそれで大きな問題だが、それとは別の問題として、本来線引きが必要な世界が、メディアを通じてどんどん普通の世界に浸透しつつあるのではないかと思う。これがどうして問題視されないのか、私にははなはだ疑問だ。

 

ネットでは吉本興業が教育事業を展開しようとしていたという話があり、ああいう人たちが教育に手を出して、どういう子供が育つか、想像するだに恐ろしい。まさにファシズム全体主義との親和性がああいう世界は高いからだ。(森友問題を思い起こすべきだろう)

 

今の日本のソフトな、あるいはマイルドな全体主義っぽさを確実に醸成・促進しているものにはいろいろな要素があると思うが、その一要素は、ここにもあるように思う。

 

芸能、その背後にある世界と政治の世界との関係について、もっと敏感になるべきではないか、このところそう考えている。

 

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維新の会のあの下品さ、吉本の「こてこて」な感じも、どちらも大阪を代表するものではない。せいぜい、大阪という土地柄のごくごくほんの一部でしかない。

 

大阪というところは、本来はもっと上品なところであって、だからこそ(今はどうだか知らないが)文楽のような本当に偉大な芸術を生むことができた。上方落語一つとっても、3代目春団治、5代目文枝といった名人たちは腹を抱えて笑わせてくれても、品は失わない人たちだった。それが大阪という土地柄のはずだ。

 

それなのに、一番ダメな部分がこういう形で政治と関わり合うようになってしまっていることに、私なぞには本当に残念だし、所詮大阪の話と片付けるのではなく、よほど警戒する必要があると思う。

 

木村幹のTwitterをよく見ていると書いたが、木村は日本も韓国も外交が下手だと書いている。きっとそうなんだろうと思う。

 

私は、自分に対して甘い態度をとるのは気持ち悪いと思うので、自分が日本人である以上、日本の右翼が言うような甘い態度はとりたくない。ああいう主張をするのであれば、戦後に日本が稼いだ金を全部吐き出して、日本人全員が飢餓で死にそうになるような状態に戻ってからものを言え、と思う。
 

と言って、安倍内閣を批判するために、過度に韓国の主張を是とするのもいかがなものか。私は詳しいことはよく分からないが(そもそも私には韓国語が全く分からないし)、理解の難しい反応をしていることはおそらくそうで、それは木村のTwitterや彼がRTする専門家筋の様子をうかがっていると察せられる。

 

なので、このところ、安倍内閣を批判するための対比として、韓国は正しい、とてつもなく日本より上だと、ざっくり言えばそういう意見をいう人たちをよく見るが、少なくともその種の意見には無理があるように思う。これも、隣国理解の難しさを端的に示している。

 

結局、その難しさということをまず理解することが大事なんだろうと、私なぞは思う。

木村幹のTwitterをよく見ているが、国際政治学をやろうと思ったら、自分が対象とする国の言語を勉強しないとだめだという話をしていて、もっともだと思った。

 

私はたまたまイタリアと縁があった。イタリア人の反応がいかに他国の人間から見て奇妙にみえることがあるとしても、それなりの合理性があるからそういう反応になっているわけで、その合理性を知るには相当の苦労が必要だ。

 

歴史・文化・社会的背景を知ることが必須であり、かつ今問題になっている事象の様々な言説を読まないといけない。

 

そのためには日本語訳では足りないのはもちろんのこと、英訳になったものや英語で報じられたものだけでは到底足りない。

 

それは量的な問題だけではない。英語圏のイタリアに関するバイアスについては何回かこのブログでも取り上げているのではないかと思うが、そういう問題もある。

 

というわけで、ある国の政治状況を知るにはその国の言語を知ることが絶対に必要だ。

 

無論、一国についてすらそういうことができる人は専門家に限られるうえ、あらゆる国・地域についてそのような専門家の知識が必要であることは言うまでもない。

  

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普通は、海外情報をその国の言語で得ることそれ自体が言語の壁・時間の問題などのためにかなり難しく、そのために圧倒的多数の非専門家と専門家の間で認識がずれるのは当然だ。この種の問題はどこの国でも抱えているように見える。

 

そこで、専門家や、専門家の知識に基づいて行動するべき政治家はどうすればいいのだろうか、という問題が出てくるわけで、こんな問題には私はただただ、空を見上げて呆然とするしかない。


たとえば、イタリア好きの私のような変な日本人にできることは、せいぜい、ネットでイタリアのテレビ・ニュースを見て、気の向いた新聞記事を時間がある時に眺める、程度のことしかできないわけで、こんないい加減なことではもちろんダメであることは言うまでもない。

老年が若い有権者を挑発しながら、投票を促す動画、というのを見た。

 

単に投票行動を促したいだけなら分かるのだけれども、この老年が揃って保守的で逃げ切ることだけを考えている、という設定になっている。

 

もしも、この動画によって若い人たちが左派に投票するだろうということを期待するのであれば、大きな間違いだ。

 

それは、日本の左派の主張を聞けば明らかで、いずれも老年層に媚びた主張をしていて、

 

もしもあの動画を見て投票する若者がいるとすれば、その若者は自民党に一票を投じるだろう。

 

だから日本の左派は何も分かっていないというのだ。

結局、障害のある人には特別な配慮を無理やりしない、というのが、私のポリシーになった。

無論、障害そのものに配慮をしたり、手助けするのは当然だ。言いたいことはそういうことではなく、善悪の判断基準のようなものを、障害があるからと言って、甘くしたりしない、ということだ。

障害があるからとか、かわいそうだからなどなど、言い訳をつけるといくらでもつけられる。そうなると善悪の基準がぐちゃぐちゃになってしまう。ダメなものはダメ、よいことはよい。そこで健常者と区別をつける必要は全くないし、つけてはならない。

そういうことを書いていたら、たまたま次のような記事が出た。
車いす対応バスなのに「次に乗ってくれ」 運転士「拒否」で40分待ち、「障害者は客として認識されていないのか」(J-CASTニュース) - Yahoo!ニュース

車いすの人が乗車拒否されたという草津の例だが、障害者の人のコメントに次のようにある。

駅員やバス会社は私たちに対して平気で『待ってくれ』と言います。でも同じように駅員等の支援が必要な外国人や高齢者のひとにそんな発言してるところは見たことないです。つまり、外国人や高齢者は客の対象として捉えているのに、極論で言えば障害者は客として認識されていないのか、と最近思っています。

これは明らかに言いすぎで、本人の精神衛生上も、これは違うとはっきり言ってやるべきだと私は思っている。

もしこの理屈が通るのであれば、私はバスで乗車拒否されている車いす利用者を見たことがないので差別がないことになってしまうし、他方でバス運転手による外国人への差別は厳然として存在する。

自分だけひどい目にあっていると主張するのは、いろんな意味でよろしくない、とはっきり言うべきことは言うべきであって、そこで「障害のある人だから仕方がない」と手加減してはならない、というのが私のポリシーのようなものとなっている。

もうひとつは、自分に無理なことまで背負いこまない、できないものはできないと、はっきり断る。

障害や重い病気を抱える子供を持つ親御さんは、やむなく人にお願いをする。私にできることならいいが、できないことはできないので断っても、それでもなんとか、という親御さんは少なくない。

気持ちは分かるが、できないものはできないのであって、いくらお願いされてもだめで、やらないものはやらない。ここをはっきりさせないと、過大な責任を負わされることになってしまう。

ところが、ここで断ってしまうと、こちらが悪人のような話が流布しかねないわけだが、こういうことはあってはならないのであって、できないものはできないということがある。

冷たいようだが、今のところ、私が真面目に考えた結果がこうなっている。

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私からすれば、障害者の話で簡単に感動できる人たちのほうが、よほど冷たい。どこまで行っても他人事にとらえているからだ。

ましてや、障害者をネタに利用する人たちの気が知れない。よほど冷酷無残な人たちだと思う。

障害のある子供が学校に通い出して、バリアフリー化工事をしたので、その一人のためだけではなくて、その後にも障害のある子供が通えるようになってハッピーでした、という話を見た。

 

それ自体は大変結構な話だと私も思うが、たいていそこで終わらない。というのも、「誰がその障害者の世話をしたのか」という問題がスッポリ抜けているからだ。

 

むろん、障害の程度によるわけで、身体の動きに問題はあってもたいていのことは自分で出来て、学習に大きな支障がないなどの場合はともかく、そうではない重度障害の場合はどうなるか。

 

・・・

 

私が子供の時からこの点はひどかったが、最近聞いた話では、授業中もじっと座って授業を受けるのが難しい重い障害のある子供に、無理やりホームルームの司会役などを任した教師の話を聞いて仰天した。

 

当然、ろくに進行役は務まらないわけだが、「意見を言ってください」など誰にでも言えることを言っただけで先生は猛烈に褒める。あんまり何もできないので見るに見かねた子供が黒子役を買って出て、耳元でセリフを教えて、その障害のある子がその通りに言うと、また先生が褒める。それで黒子役の子供が褒められたならともかく、俄然無視された、という。

 

この障害者の子供に対する先生の態度は一事が万事この調子で、クラスの子供たちはとてもやってられんと憤懣やるかたなく、障害者学級に行くべきだと怒っているそうだが、少なくともこの教師の独りよがりな態度は問題で、子供たちが怒るのも無理はない。

 

こういうのは、障害者の社会参加とは言わない。単に、周囲の善意に頼って、周囲を振り回しているだけだ。教育でも何でもない。

 

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この手の話は昔からあり、私の知人が、中学校のときの修学旅行で、障害のある、あるいはかなりそれに近い同級生ばかりの班に実質的に「世話係」として入れられて、先生たちはほったらかしだった、という話もあったりする。

 

バリアフリー化などの施設整備が重要でないとは思わないが、それでハッピーエンドには絶対にならない。もっと現実的な、難しい問題があるのであって、そこにどう向き合うかが大事になってくるのだろうと思っている。

 

いずれにせよ、上に書いた例ような学校の先生らの態度、またそれを支持する大人たちの身勝手さは論外だ。表向きの麗しさに簡単に感動してもらいたくないのだ。