木村幹のTwitterをよく見ているが、国際政治学をやろうと思ったら、自分が対象とする国の言語を勉強しないとだめだという話をしていて、もっともだと思った。

 

私はたまたまイタリアと縁があった。イタリア人の反応がいかに他国の人間から見て奇妙にみえることがあるとしても、それなりの合理性があるからそういう反応になっているわけで、その合理性を知るには相当の苦労が必要だ。

 

歴史・文化・社会的背景を知ることが必須であり、かつ今問題になっている事象の様々な言説を読まないといけない。

 

そのためには日本語訳では足りないのはもちろんのこと、英訳になったものや英語で報じられたものだけでは到底足りない。

 

それは量的な問題だけではない。英語圏のイタリアに関するバイアスについては何回かこのブログでも取り上げているのではないかと思うが、そういう問題もある。

 

というわけで、ある国の政治状況を知るにはその国の言語を知ることが絶対に必要だ。

 

無論、一国についてすらそういうことができる人は専門家に限られるうえ、あらゆる国・地域についてそのような専門家の知識が必要であることは言うまでもない。

  

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普通は、海外情報をその国の言語で得ることそれ自体が言語の壁・時間の問題などのためにかなり難しく、そのために圧倒的多数の非専門家と専門家の間で認識がずれるのは当然だ。この種の問題はどこの国でも抱えているように見える。

 

そこで、専門家や、専門家の知識に基づいて行動するべき政治家はどうすればいいのだろうか、という問題が出てくるわけで、こんな問題には私はただただ、空を見上げて呆然とするしかない。


たとえば、イタリア好きの私のような変な日本人にできることは、せいぜい、ネットでイタリアのテレビ・ニュースを見て、気の向いた新聞記事を時間がある時に眺める、程度のことしかできないわけで、こんないい加減なことではもちろんダメであることは言うまでもない。

老年が若い有権者を挑発しながら、投票を促す動画、というのを見た。

 

単に投票行動を促したいだけなら分かるのだけれども、この老年が揃って保守的で逃げ切ることだけを考えている、という設定になっている。

 

もしも、この動画によって若い人たちが左派に投票するだろうということを期待するのであれば、大きな間違いだ。

 

それは、日本の左派の主張を聞けば明らかで、いずれも老年層に媚びた主張をしていて、

 

もしもあの動画を見て投票する若者がいるとすれば、その若者は自民党に一票を投じるだろう。

 

だから日本の左派は何も分かっていないというのだ。

結局、障害のある人には特別な配慮を無理やりしない、というのが、私のポリシーになった。

無論、障害そのものに配慮をしたり、手助けするのは当然だ。言いたいことはそういうことではなく、善悪の判断基準のようなものを、障害があるからと言って、甘くしたりしない、ということだ。

障害があるからとか、かわいそうだからなどなど、言い訳をつけるといくらでもつけられる。そうなると善悪の基準がぐちゃぐちゃになってしまう。ダメなものはダメ、よいことはよい。そこで健常者と区別をつける必要は全くないし、つけてはならない。

そういうことを書いていたら、たまたま次のような記事が出た。
車いす対応バスなのに「次に乗ってくれ」 運転士「拒否」で40分待ち、「障害者は客として認識されていないのか」(J-CASTニュース) - Yahoo!ニュース

車いすの人が乗車拒否されたという草津の例だが、障害者の人のコメントに次のようにある。

駅員やバス会社は私たちに対して平気で『待ってくれ』と言います。でも同じように駅員等の支援が必要な外国人や高齢者のひとにそんな発言してるところは見たことないです。つまり、外国人や高齢者は客の対象として捉えているのに、極論で言えば障害者は客として認識されていないのか、と最近思っています。

これは明らかに言いすぎで、本人の精神衛生上も、これは違うとはっきり言ってやるべきだと私は思っている。

もしこの理屈が通るのであれば、私はバスで乗車拒否されている車いす利用者を見たことがないので差別がないことになってしまうし、他方でバス運転手による外国人への差別は厳然として存在する。

自分だけひどい目にあっていると主張するのは、いろんな意味でよろしくない、とはっきり言うべきことは言うべきであって、そこで「障害のある人だから仕方がない」と手加減してはならない、というのが私のポリシーのようなものとなっている。

もうひとつは、自分に無理なことまで背負いこまない、できないものはできないと、はっきり断る。

障害や重い病気を抱える子供を持つ親御さんは、やむなく人にお願いをする。私にできることならいいが、できないことはできないので断っても、それでもなんとか、という親御さんは少なくない。

気持ちは分かるが、できないものはできないのであって、いくらお願いされてもだめで、やらないものはやらない。ここをはっきりさせないと、過大な責任を負わされることになってしまう。

ところが、ここで断ってしまうと、こちらが悪人のような話が流布しかねないわけだが、こういうことはあってはならないのであって、できないものはできないということがある。

冷たいようだが、今のところ、私が真面目に考えた結果がこうなっている。

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私からすれば、障害者の話で簡単に感動できる人たちのほうが、よほど冷たい。どこまで行っても他人事にとらえているからだ。

ましてや、障害者をネタに利用する人たちの気が知れない。よほど冷酷無残な人たちだと思う。

障害のある子供が学校に通い出して、バリアフリー化工事をしたので、その一人のためだけではなくて、その後にも障害のある子供が通えるようになってハッピーでした、という話を見た。

 

それ自体は大変結構な話だと私も思うが、たいていそこで終わらない。というのも、「誰がその障害者の世話をしたのか」という問題がスッポリ抜けているからだ。

 

むろん、障害の程度によるわけで、身体の動きに問題はあってもたいていのことは自分で出来て、学習に大きな支障がないなどの場合はともかく、そうではない重度障害の場合はどうなるか。

 

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私が子供の時からこの点はひどかったが、最近聞いた話では、授業中もじっと座って授業を受けるのが難しい重い障害のある子供に、無理やりホームルームの司会役などを任した教師の話を聞いて仰天した。

 

当然、ろくに進行役は務まらないわけだが、「意見を言ってください」など誰にでも言えることを言っただけで先生は猛烈に褒める。あんまり何もできないので見るに見かねた子供が黒子役を買って出て、耳元でセリフを教えて、その障害のある子がその通りに言うと、また先生が褒める。それで黒子役の子供が褒められたならともかく、俄然無視された、という。

 

この障害者の子供に対する先生の態度は一事が万事この調子で、クラスの子供たちはとてもやってられんと憤懣やるかたなく、障害者学級に行くべきだと怒っているそうだが、少なくともこの教師の独りよがりな態度は問題で、子供たちが怒るのも無理はない。

 

こういうのは、障害者の社会参加とは言わない。単に、周囲の善意に頼って、周囲を振り回しているだけだ。教育でも何でもない。

 

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この手の話は昔からあり、私の知人が、中学校のときの修学旅行で、障害のある、あるいはかなりそれに近い同級生ばかりの班に実質的に「世話係」として入れられて、先生たちはほったらかしだった、という話もあったりする。

 

バリアフリー化などの施設整備が重要でないとは思わないが、それでハッピーエンドには絶対にならない。もっと現実的な、難しい問題があるのであって、そこにどう向き合うかが大事になってくるのだろうと思っている。

 

いずれにせよ、上に書いた例ような学校の先生らの態度、またそれを支持する大人たちの身勝手さは論外だ。表向きの麗しさに簡単に感動してもらいたくないのだ。

「安倍さん勝ったら後期高齢者の医療費負担が倍」枝野氏(朝日新聞デジタル) - Yahoo!ニュース

 

 ■枝野幸男立憲民主党代表(発言録)

 年金の2千万円の報告書が目立っていて影で隠れていますが、財政審議会というところが、同じときに建議している。後期高齢者の皆さんの医療費の自己負担を、今の1割(負担)から、倍にするっていっている。そして、介護の自己負担も倍に増やすっていっている。今必要なことの逆じゃないですか。

 財政審議会で建議されたら、だいたい次の年の予算に反映される。この選挙で安倍(晋三)さんが勝ったら、後期高齢者の皆さん、医療費の自己負担、2倍に上がるという政治が進んでいる。変えなきゃいけないんじゃないですか。これじゃあ老後の安心、つくれないじゃないですか。(10日、滋賀県彦根市での街頭演説で)

民主党の」枝野と、わざわざ「言い間違える」 首相の意地悪さもたいがいで本当に嫌になるので(近所にこの手の憎らしい口を利くガキがいて、ろくに勉強もできないくせに、本当に腹が立つわけだ、こういうタイプの野郎は)、自民党に投票する気に全くならないのだが、肝心の野党の代表が年寄りに対してこういう媚び方をするんだから、もう投票先が完全になくなってしまう。そこのところがどうして政治家たちに分からないのかが私にはまったく理解、、、できないことはないが、これで投票率が落ちているだのなんだの、言ってもらいたくない。

 

いい加減にしてほしい。もっと真面目にやれ、と言いたくもなる。

 無知な大衆はダメなのでインテリが革命を起こしてなんとかする、というのは、18世紀末にナポリで失敗済みだ。この失敗に対する反省が、のちのちに影響を与えているそうだ。

 

 無知な大衆を教化しようというのも、たとえば日本の戦後左翼の種々の活動が結局失敗したのでこれもダメだろう。

 

 しかし他方で、有権者のニーズをすくい取って、それを実現するとか、マーケティングの様々な手法を使って権力掌握する、というのも、これは違うだろうと思う。

 

 こういうのは単なるポピュリズムとかデマゴギーとかいうものだと思うが、今では世界的にどこでもこうなっている。

 

 当然、一定の批判はあるべきだろうが、日本の場合、右も左もやってることはポピュリズムだけで、ここで絶望しか私は感じない。

 

 社会がどう進めばいいかは、ある程度の合理性に基づいた判断があるべきなんだろうが、しばしば世論はその合理性についていけないものだし、あるいは明らかに非合理的で間違っていることも少なくない。そういう時には、政治家や専門家たちはどうすればよいのだろうか。

 

 そこに政治家の難しさがあるのだろうし、専門家の責任や、インテリ知識人の責任、エリートの責任というものもそこにあるのだろう。

 

 ・・・と、私は思うのだけれども、現実には、大衆という名の見のほど知らずのアホをいかに自分に都合よく利用して、社会的地位の上昇や経済的な利益の獲得のことしか考えていない人間が多すぎる。

 

 そんなことでいいわけがないんだけれども。

これは国境を超えると思うが、政治がらみの話で一番イヤなのは、

「あんた、今与党のそれ褒めてるの、与党を支持してるからってだけで、野党が主張したらボロクソに言うだろう」

とか、

「あんた、今野党のそれを褒めてるの、野党を支持してるからってだけで、与党が主張したらボロクソに言うだろう」

ということだ。

党派的に最初から答えが決まっているから、自分で考えているつもりで何も考えていない、こういう反応が出てくるのだと思うが、

「政治なんてそんなものだろう」

と言われたら、それまでかもしれない。

でも、政治的な対立はどこかで収斂していかないと意味をなさない。イタリアのジョルジョ・ナポリターノ大統領が議会での演説で「民主主義の弁証法」という言い方をしていたのはそういうことだろう。

話が脱線するが、ナポリターノ大統領はもともとイタリア共産党出身だが、共産党の右派に属しており、先の演説でも、自分は民主主義建設のための礎を築くように努力してきたというようなことを言っている。イタリア共産党は戦前戦中からの反ファシズム活動などの影響で、ゴリゴリの共産主義者だけを受け入れていたのではなく、かなり幅広い人材を吸収しており、社会民主主義に接近する向きもあったわけで、「共産党」と言っても一口には言えない。保守派の塩野七生の好きな政治家の一人が、イタリア共産党右派のジョルジョ・アメンドラであることからも、いろいろ察することができる。

それはさておき、こういう不毛な政治的な対立的言説(うるさい方が勝つ)の外には、日々の生活に忙しい大多数の「普通の」人々がいる。

私は、こういう「普通の」人々が良識的であるとも良心的であるとも思っていないし、全く信用してもいない。

さてどうしようか、というところでいつも話がとまる。仕方がないので、私の身の回りの世界だけでも、という努力しかしないことにする。くだらない党派性の高い議論をするより、そっちのほうが現実的で性にあっている。