小幡績PhDの行動ファイナンス投資日記:なぜ米国の一流経済学者が日本に二流のアドバイスをするのか

 しかし、阿呆なりに学んだのは、これが米国一流経済学者が日本にリフレ政策やMMT、果てには消費税引き上げ延期、財政出動をまじめな顔でえらそうに提案する理由がわかったのである。

 

彼らは、お気楽に無邪気に思い付きをしゃべっているだけなのである。しかも、米国経済学者は世界一であるという(正しい面もあるのだが)優越感から、ヴォランティア精神で、親切にアドバイスしているつもりなのである。

 

そして、そのアドバイスが間違っているのは、日本のごく一部を観察して、自分の価値観に都合よく結びつけて、いいことを思いついたことにうれしくなり、提案しているのである。

 

そんなことを自国の米国経済に提案しないじゃないか、無責任じゃないか、よその国で実験しやがって、と思うだろうが、彼らは米国でも実験することはやぶさかではないのだが、米国では一応社会、経済の全体像を知っていて、観察機会も多いからデータが多い、ケースも多いので、誤った提案は誤っていることに気づくのである。

 

自分のよく知らないことに対しては、いわば観光客気分で、親切に無邪気に、サンプル1、ケース1で、いいことを思いつき、気軽に言ってみるのである。

 お前は何を今さら言っているんだ、という感想以外にない。

 

いや、レトリックとしてこういう書き方をしているならよく分かるのだけれども、そうでなくて真顔でこう言ってるなら、経済学者の世界は一体どういうことになっているのか。

 

私がリフレ派はおかしいと言った根拠の一つがこういうことで、さがせばこのブログにいくらでもこの種のことは書いているはずだが、経済学者たちはこれが分からないでもの言ってたのだろうか。。。???

障害者に国会議員が務まるのかというのは、もちろん、障害の程度によるわけだけれども、脳性麻痺や筋萎縮症の患者に議員活動は、常識的に考えれば無理だろう。

 

私は個人的な経験から、障害者についてはいろいろ思うところがあって、「健常者と同じように」と言っても現実的に無理な場合があるのは認めるべきだと思っている。

 

もちろん、個人が自由に活動するのは大事なことには違いないが、「健常者と同様の社会参加を」という類いのことが言われるとき、人の迷惑を考えないで言われることがある。面倒なことは適当に他人に押し付けて、その他の人はみな平和、と。私はもうそういう目にあいたくないので、地に足の着いた、現実的な議論をしてもらいたいと本当に思っている。

 

しかも、こういう考えの人間は善人でないかのように思われるので、余計にかなわんのだ。

 

イタリアのポピュリストも、「議会に直接普通の市民を送り込もう!」というのがスローガンになって、それで大きく成功したが、相当の重度障害の患者を無理やり議会に送り込もうという話まではしていないように思う。

 

日本のポピュリズムがいかなるものか、察せられるというものだ。

 

・・・

 

しかしそれと並んで理解しがたいのが、参議院選挙の「特定枠」という制度だ。

 

これは自民党の候補者調整がうまくいかないので、止むなくこういう枠を作ったというような経緯にしか見えないんだが、こんな選挙制度を、よくもまあ作ったものだと呆れている。

 

私が不注意なだけかもしれないが、メディアで大きな議論になっていたようにも思われない。本来であれば徹底的に批判されるべき制度のはずだろう。

 

重度障害の患者を無理やり議員にしようという話は、この選挙制度をいわば「悪用」したものだ。無論、この場合は人によっては「善用」していると言うのだろうが、こういう利用のされ方ならおそらくましで、どうとでも「悪用」されうる制度であるようにしか見えない。

 

「特定枠」をこそ、もっと批判するべきではないだろうか。

地方の私立中高で、この十数年は少なからぬ卒業生が中央の官僚になっているような学校の生徒の話を聞いていると、英語の授業がまともでなくなっていることに驚いた。

 

つまり、英文をきちんと読むという訓練を、私立の進学校クラスの学校でさえまともにやってない。

 

これが、偏差値の低い私立や、あるいは公立学校であるならば、たいして驚かないが、それなりに優秀な子供を集めているはずの私立学校ですら、英語の授業がかなりずさんらしい。

 

私は、子供にしか夢が持てないので、真面目に子供に向き合いたいと思っているが、世の中の大人たちは、子供と向き合って将来のことを考えるということをしていないらしい。

 

でないと、こんなずさんな状況が放置されたままになるはずがない。

 

この子たちだけでも何とかしてやってくれ、将来のある子供と、あとは死ぬだけの年寄と、どっちが大切か自明だろう、と私は思っているので、できるだけのことはしているつもりだ。

小学校2年生の女の子と、こういう会話をした。

 
小2「他の人みんな働くのに、社長はなんでえらそうにして椅子に座って働かへんの?」
 
私「社長さんはね、別のお仕事してはんの。みんなが働きやすいようにするのがお仕事なんよ。せやから、えらそうにいばってるのは、、、」
 
小2「ホンマの社長やない」
 
私「そう!」
 
同じ日本人なのに、小学校2年に分かる道理が、大人にはさっぱり通用しないのはなぜなのだろう。

ネットには大学の先生が多い。見ていると、特に国公立大学の先生の、資金的時間的な余裕のなさがよく伝わってくる。

 

まことにもってお気の毒で、何とかしなきゃならんだろうと私も思うわけだが、もう片方で次のことも思わないでもない。

 

というのも、その当の先生がたが、同時に学会内のパワハラやコネ採用などの問題を散々あげつらっていたりする。

 

こういうところをただ愚痴るだけにしておいて、もっと税金を投入してくれと言われても、納税者の理解は得られないのではないか。

 

天下りについていろいろ言ってみても、説得力がでてこないのではないか。

 

論文不正の問題も、ごく一部のおかしな人の所業ではなく、全体的に倫理観念が欠如しているところが問題とも見えるわけで、そこにもっと税金を投入してくれと言われても、納税者は困るだけだろう。

 

はたから見ているだけの私なんかには、そこらの人間よりよほど学問は大事だと考えているにもかかわらず、そういうふうにどうしても見えてしまう。

私が分からないことの一つは、地球温暖化について、日本でほとんど取り沙汰されていないように見えることだ。

 

私の住んでいる地域でも、太陽光線がまるで昔と違っているのが感じられるし、なにより気温から何から変だ。

 

これが、人間の活動に起因しない現象だとは到底思えないわけだが、しかし全くといっていいほど問題視されないのは、どういうことなのだろうか。

 

もちろん、これを言い出すと、大変に困難きわまる問題に直面するわけで、足りない頭で考えても無駄だろう。

 

しかし、問題意識くらいはもっともたれてもよい。

 

先日、イタリアの石油プラントで働いているイタリア人と話したら、日本ではビニール袋など、プラスチックが多すぎると言っていた。この業界は先がないから商売替えしなきゃと自嘲する石油屋に言われたら、もうおしまいではないか。

 

経済問題が大事でないとは思わない。が、他に大事な問題もある。経済だけを最優先にしてものを考えることは許されなくなっているし、だからこそ難しいのだ、そこから逃げてはいけないし、ましてや反っくり返って開き直ってもダメだろう。

こないだも、高校生が面白いことを言っていた。

 

「生徒会なんて、先生にいい顔をして、内申点稼ぎしたい子しかいませんから」

 

その子はそう言って憤慨していたが、ああ、そうだろうなあ、と私も思った。

 

こういう言い方をすると、真面目に生徒会活動をしている子も私は知っているので、別の側面があることにも一応の理解はあるつもりだが、たぶん問題はこういうことなのだろう。

 

つまり、内申点というものがいろいろな問題の元凶になっているらしいということは、今の中学生高校生の生態を見ていると、なんとなく察してはいた。

 

勉強だけではなく、部活動や日常生活など、学校生活のありとあらゆることが内申点という形で反映してしまうため、先生に逆らうようなことはできない、あるいは先生でなくても、先生の顔色をうかがう「やる気のある(笑)」タイプのアホに、「お前はアホか」と言って喧嘩することができない。

 

そのあたりのことを指して、「先生の顔色をみて、内申点稼ぎをやる生徒」という言い方になるんだろう。

 

これは高校だけではなくて、中学校でもそうだ。

 

学校のお勉強よりも、こういうことのほうが、教育上、はるかに問題ではないか。

 

子供たちの話を聞いていると、おかしいことはおかしいという認識自体は持てている。単に、ものが言えない、行動できない、というのがネックになっている。

 

アホの言うことを聞くのはまっぴらゴメンだという子供を育てるほうが、はるかに大事だし、それが自主性というものだろう。

 

そのせいかどうかは知らないが、大人の世界も、学校のまんまのアホがはびこっているようにしか見えんではないか。

 

・・・

 

学校が一番荒れた世代の人たちの現在も知らないでもないが、いろいろあるんだろうが、立派に人生を送っている人も少なくないように見える。

 

頭が悪くて、性格的にも人間的にもいかがなものかというような教師たちに従順な子供よりも、学校のガラスを割り倒す子供のほうが、まだよかったのではないか。

 

先日、小学校の修学旅行で非常な悪さをして、宿にも大きな迷惑をかけた子供の話をその母親から聞いた。

 

母親とその子で宿までわざわざ再度行って謝ったそうだが、私はお母さんに、

 

「今時珍しい、ようやったようやった!」

 

と大笑いしながら、その子を褒めた。

 

私の子供の時分は、今思えば、そんなもので良かったはずだ。大人の勝手な都合、責任をとりたくない小心で、子供を締め付けて、それで何かいいことがあるかというと、何もないだろう。