呉座勇一との「議論」(議論になっていないと私は思うが)で、八幡和郎を「実務家教員」という点から呆れる人たちがいる。

 

私が「実務家教員」の実態をよく知らないこともあって、本当にそういう括りで批判できるのかどうかと思った。

 

そこで一応確認してみると、八幡は歴史をネタにした本を出版しているものの、歴史学の訓練をそもそも受けていない。東京大学法学部を卒業しただけだ。

八幡和郎 - Wikipedia

今は徳島文理大学の教授だけれども、総合政策学部の教授らしく、シラバスで確認できる。

http://ss.pt.bunri-u.ac.jp/syllabus/ichiran.php?ID=8A&year=2018

http://ss.pt.bunri-u.ac.jp/syllabus/ichiran.php?ID=8B&year=2018

一応、通商産業省の元官僚という八幡の経歴を考えると、違和感はない。

 

これだったらいいじゃないかと一瞬思ったが、よく見てみると、歴史も教えているらしい。

http://ss.pt.bunri-u.ac.jp/syllabus/sylla_ichiran.php?SUBID=13251&DEPID=8A&year=2018

http://ss.pt.bunri-u.ac.jp/syllabus/sylla_ichiran.php?SUBID=12873&DEPID=8A&year=2018

元東大法学部とは言いながら、おっさんの漫談を聞かされる学生もたまったもんじゃないなこりゃ、とは思うものの、歴史学を教えているわけではない。はっきり言ってしまえば徳島文理大学レベルの学生相手なら、この程度の漫談でも、あるいは十分かもしれない。学生たちは中学校の日本史レベルの知識が怪しいんじゃないか。せめて高校レベルの日本史の知識くらい持っておいて欲しいんだけれど。

 

ただ、あくまでも「総合政策学部」である以上、「実務家教員」という点から攻めるのは、やや筋が悪そうである。

 

もっとも、八幡本人は自分が「歴史家」だというポジションを崩したくないらしいが、ご冗談でしょう、そりゃあ。

 

・・・

 

八幡の歴史学歴史学者というものに対する言説がお話にならないことは間違いない。よく勉強をする時代小説家や歴史小説家のほうがよほど「歴史家」だ。

 

呉座と土俵が違いすぎるのが議論にならない理由の一つだけれども、一番大きな問題が歴史と現実社会との関係についての八幡の認識に端的に現れているように思う。八幡によると、

呉座 VS 井沢:歴史学者だけが歴史家なのか? – アゴラ

歴史をなぜ人々は学ぶかといえば、もちろん、真実を知るとかいうこと自体に意味がないわけでないが、もっと重要なのは現実の政治や経済や生き方を考えるために役に立てるためだ。そうであれば、学者だって、学会で認められること以上に、世の中で認められることにもっと価値の重点を置くべきだと思う。

前半は以前引用したが、強調したいのは後半で、「学者だって」「世の中で認められることにもっと価値の重点を置くべきだと思う」と問題はここにある。

 

これがいかに徹底しているかは次のFacebookの発言でもそうで、

 

https://www.facebook.com/kazuo.yawata/posts/2509383299135875

「そもそも社会の仕組みがまるで異なる古代や中世、近世の政治を、現代政治の視点から考察することは極めて危険である」とか仰っているのを聞くと、逆に「そもそも社会の仕組みがまるで異なる古代や中世、近世の出来事を、現代社会を考察する上で有益な経験とか前例とすることは極めて危険であるので歴史など学んでも仕方ない」という論理的帰結になりそうである。それなら義務教育から歴史なんぞはずしたほうがいい。歴史なんぞ好奇心を満たすエンタメに過ぎないということなのだから

という話にまっすぐなってしまうあたり、日本史が義務教育に入っているのはナショナルアイデンティティの育成のためという極めて政治的な目的があるのを保守派であるにもかかわらず忘却する程度に、八幡の功利的志向は極めて強い。

 

つまり八幡の振る舞いは、「世の中で認められることにもっと価値の重点を置く」ということを基準にしているわけで、そこは確かに徹底している。

 

そもそも普段相手にしている学生が、徳島文理大学レベルの学生たちであって、ちゃんとした学問がこのレベルの学生にとって無駄で無意味だと八幡は思っている。

 

しかも、東大法卒で元通産官僚である八幡は、世間のレベルがどの程度のものか、徳島文理大レベルとそう変わらないこともよく知っている。

 

つまり、完全に世間を見切っていて、それでまともな学者を激怒させる発言が次から次へと飛び出してくるのだ、と私は思う。

 

だから、呉座勇一が八幡和郎とまともに議論したって意味がないうえ、八幡にとっては呉座がいいカモにしかならない。

 

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それにしても。

 

八幡は一応は東大法学部卒から通産官僚になったエリートなのに、自分と比べると世間のレベルがアホを極めているところに商機を見出して(「世の中で認められることに価値を見出す」とはこのことだ)、その通りに振る舞うのが賢い振る舞いだと思っているあたり、

 

東大を出たからって、だからなんなの、と改めて思う。

 

私が「実務家教員」の問題かと疑っているのはまさにここのことで、別に「実務家」でなくても、普通に大学の先生でも似たような人はいるのではないか。

 

あるいは大学の先生であるかどうかも関係ない。この種の人はどこにでもいる。

 

トップクラスのエリートであるはずの人間の料簡が腐りきっているという場面が、あまりにも多すぎる。倫理の問題、あるいは人間はどう生きるべきかという問題をもっと真面目に考えないといけないと言いたくなる理由がこのあたりにある。

https://twitter.com/finalvent/status/1109240177342349313

finalvent@finalvent
現在の日本人の生きづらさというのは、何者かになろうとする・何者かであれとしいられる感覚からではないかな。

何者にもなれないとしてきちんと絶望すると楽になるのでは。

 

何者かになろうとするための「すべし」集だけでなくて、「べからず」集が多そうだ。

 

ただ、「絶望」はする必要はないのではないか。その「何者か」はなんでもないわけで、そこに希望を持つほうがおかしいことに気がつくかどうかが問題なので、絶望することはない。

 

なにか「こうしなければならない」「こうしてはいけない」というものを、一旦取っ払ってしまったらいいのに、と思うことが多い。

 

人は人、自分は自分。幸せのあり方は人それぞれ違う。

 

ただ、「自分らしく生きる」という日本語で指し示しているものが、たいてい内実のない、「こんなの素敵ぃ!」という類のことしか意味しないので私は好まない。

 

そうではなくて、一旦すべて取っ払ってみたら楽になりますよと。自分の素になるだけなので、絶望ではなく、もっと積極的な気持ちなのではないかと思う。

 

・・・

 

最近、性差や性の自己認識、同性カップルなどなどの問題で少数者の権利を守れという議論が非常に活発だが、私はちょっと距離を置くことにしている。私にはよく分からないし、正直に言えば、「そりゃあ、結婚するって男と女がやるもんじゃないの?生物的に同性では結婚とは言わんでしょう」とも思っている。(他方で、イタリアだと、同性愛傾向のある子供が学校でいじめられて自殺する例がよく報じられており、それは私も知っている)

 

だからというわけでもないが、憲法学者が、憲法第9条解釈改憲には堂々と反対しながら、憲法第24条の「両性の合意による婚姻」は同性婚も可能と主張したりすると、非常に呆れる。そこまでやるか。

 

この種の流れはもちろん世界的なものだけれども、これに対する反動の動きもある。

 

日本の場合、反動以前の部分があるように思うが、「少数派の人権を守る」のはいいとして、どうしてそういう議論が出てきたのかというところがきれいに抜けているのではないかと思う。だから、多数派が少数派を「守ってやる」という態度に出ているように見えて、そこが私の気にくわないところだ。

 

つまり、人は一人一人違う、という事実から議論を出発させないといけない。

 

私は性的にはマイノリティではないが、しかし別の面から見れば立派なマイノリティで、いろんな偏見にさらされてきている。それが嫌で随分回り道をした。

 

しかしこれは誰しもそうであって、それぞれにマイノリティの部分があるはずであり、つまり一人一人違う。あなたは自分のことを多数派だと思っているかもしれないが、それはとんでもない間違いだ。

 

みんな仲良く一緒、などと言うことはあり得ないのであり、幸せの形も人それぞれ違って当然だ。

 

「何者かになろうとする」「何者かであろうとする」ということは、ある種のモデルに自分を合わせようとすることだろう。モデルがあれば、その通りにやればいいので楽な面もあるが、モデルと自分は違うので同じようにならないのも当然だ。

 

だからモデル通りにやらないか、やるとしてもモデルと違っても構わないと自分を是認しないといけない。

 

マイノリティの人権保護も同じ文脈から出てくる議論のはずで、一人一人、違う存在であることをまず素直に認めようということだろう。人間らしく生きるとはそういうことだと、私は思っている。

 

そうすれば、もうちょっと楽になるんじゃないの、と声をかけたくなる人は、結構いそうである。

塾の先生が、中学数学の展開の公式をまず丸暗記しろとtweetしたら、なんて酷い塾だとボロクソに言われていた。

 

これに対して本人がブログで反論している。実にもっともな意見だった。

 

あれを批判する人たちは、子供たちの現実というものを全く知らないのだ。

 

・・・

 

もちろん、展開の公式は、普通に分配法則を使って解けば出てくるものであって、頭から「丸暗記」する必要は全くない。むしろ説明から入るのは当然だ。

 

ところが、そういうやり方がうまく行くのは、あらかじめ最低でも正負の四則演算が問題なくでき、分配法則を十分に理解しており、説明を理解する能力があり、そしてすぐに記憶できてしまう子供に限られる。

 

そういう優秀な子供は極めて少数だ。

 

四則演算や分配法則が怪しい子供は普通にいるし、何をどう説明しても全くピンと来ない子供も少なくないのだが、そういう子供に上記の説明をしても全く無意味で時間の無駄である。つまり、お手上げ状態になる。

 

ではどうするかというと、「なんでもいいから暗記しろ」と言うよりない。

 

そして、暗記してくれるどうか、暗記して使えるようになるかはまた別問題だ。

 

・・・

 

もう一つは暗記の効用を軽んじてはいけないだろう。

 

公式が成立している理由を理解することは大事なことではあるが、展開するのにいちいち分配法則を使ってゼロから計算していては時間がかかりすぎる。

 

さらにどうしてそういう公式が使えるのか教えようがない場合すらある。

 

たとえば、私は球の表面積・体積の計算ができるが、どうしてあの公式で計算できるのか、私は全然知らないし、説明もできない。教えられた記憶もない。

 

ただ暗記しているだけだが、それで中学校の数学としては十分すぎる。「どうして公式通りに計算すると球の表面積・体積が出てくるのか、まず説明しろ、そうでない先生はアホだ」と批判するほうが愚かではないか。

 

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この種のことは何も数学に限らない。

 

あらゆる教科に言えることだが、どういう説明をいくらしてみても全く理解できない子供は非常に多い。むしろそちらの方が普通かもしれない。(私が大人の日本語能力を大変に疑っている根拠の一つはこれだ。日本語能力が怪しいままに大人になっている人が多いということなのだから)

 

そういう子供に最終的に言えることは「なんでもいいから暗記しろ」の一言以外にありえない。

 

ところが、たいていの子供は暗記するとはどういうことかそれ自体を分かっていないし、ましてや暗記の方法なんて出てこない。暗記しろと言ってみたところで、暗記なんてそうそう簡単にしてくれない。

 

それでも、無理やりでも暗記して試験にのぞむと、それなりの結果になることが多いのは当然で、実際のところ試験でそれなりに点を取るためであれば、暗記するだけで十分だ。それで本人が少しでもうれしい気持ちになれば、目下のところはそれでよいと思う。

 

無論、勉強するということはそういうことではない。そんなことは分かっている。しかし、本人の資質上、どうにもしようがない場合、他にどういう手段があるというのだろうか。

 

優秀な子供にはそれにふさわしい教授が必要であるし、優秀でない 、並み以下の子供にはその子供にあった教授がそれぞれに必要だ。

 

「展開の公式を丸暗記しろなんて!」と頭ごなしに否定できない現実が厳然としてある。

被差別部落の知人が私にはいるが(私の住んでいるような地域で、部落と無関係に生活することは不可能だ)、荒っぽい人ばかりというわけでは決してない。大変に穏やかな人も少なくない。

 

ある老人なぞは「場所によっては『これができん言うんやったら、できるまで足に鎖をつけて一歩も外に出さんど』くらいは言うところもあるで」と言ってカラカラと笑っていたが、昔を知る人だけに言葉に迫力がある。

 

それでも若い世代の人たちは、そういうやり方では社会に適応できないということをよく知っている。だから絶対にそういう態度は表に出さない。まったく穏やかな社会人として日常生活を送っている。


私はこれがいいことだ、時代の流れであって、あるいは社会の進歩だろうと思っている。

 

「足に鎖つけたるど」という言葉が出るには、それなりの歴史的背景がある。また、限られたコミュニティの中だけで通用するならば、そういうやり方でもいいかもしれない。

 

ただ、そのコミュニティの人たち自身も変わろうとしている。

 

ましてや、コミュニティ外の人間が、そういったやり方を是としてみたり、真似してみたりすることがあっては決してならない。

イタリアのテレビで、ある現代史家が、歴史家の役割を問われて、おおよそ次のように答えていた。

 

歴史を、スーパーマーケットの商品のように、自分の欲しい部分だけを取っていく人が多い。歴史家はそこで、こういうことがあるんだけども忘れましたかと指摘しないといけない。

 

もっともなことだと思う。無論、プロの歴史家はなんでも知っていて絶対に正しい、ということではない。

 

しかしここで言われていることはそういうことではない。

ネット・リフレ派を見てきたものとしては、記録しておかないといけない。

 

インタビュー:無理に物価2%目指す必要ない、消費増税に一定の理解=浜田参与 | ロイター

 

[東京 25日 ロイター] - 安倍晋三首相のブレーンで内閣官房参与を務める浜田宏一・米イエール大名誉教授はロイターとのインタビューに応じ、アベノミクスによって完全雇用に近い状況が実現している中で、日銀は2%の物価安定目標を無理に目指す必要はない、との見解を示した。インタビューは22日に実施した。

浜田氏は、日銀による大規模な金融緩和をはじめとしたアベノミクスの推進によって、日本の雇用情勢が大きく改善したと評価した。

もっとも、デフレ脱却に向けて日銀が掲げている2%の物価安定目標は、依然として実現が見通せない状況にある。

この点について浜田氏は「国民生活にとって望ましいのは、物価が上がることではない。同じ経済状態であれば、物価が下がった方が国民生活のためには良い」とし、「雇用情勢が大きく改善しているのに、『物価が上がっていない』と批判するのは、アベノミクスをおとしめるための手段だろう」と語った。


そのうえで日銀が掲げる物価2%目標について「絶対に必要というものではない」と指摘。現在の1%程度の物価上昇率でも「完全雇用に近い状態を達成できている」と雇用を重視し、「国際情勢が波高く、目標を取り下げる必要はないが、物価目標自体をあまり重要視せずに、少し様子をみていくということで十分ではないか」との認識を示した。

現在の良好な雇用情勢が変調を来せば「もっと金融で需要をつけないといけない」と緩和強化が必要としたが、「今の日本経済は需要が供給を上回っている。それが続いている限り心配はない」と語った。

労働需給の引き締まりにもかかわらず、物価がなかなか上がらないのは「日本の経営者、国民全体が20年間続いた景気と株式市場の低迷におじけづいており、非常に臆病になっている」ことが要因と指摘。「本来なら労働需要が高ければ、賃金を上げ、物価を上げればいいが、企業はそれを嫌がっている。トラウマが効いている」と説明した。

また、AI(人工知能)の普及によって「機械で代替できる仕事が増えている。正規職員の生産性が十分ではないので給料が上がりにくく、物価も停滞してしまう」と述べ、「日本は(AI普及の)進みが遅いとはいえ、それなりに影響が出ているのではないか」との見方も示した。


政府が10月に予定している消費税率の10%への引き上げについては「現在の良好な雇用環境の中で消費税が上げられないのであれば、どんな状況でも上げられない。一度は良いかもしれない」と一定の理解を示した。

もっとも、消費税には所得が低い人ほど負担が重くなる「分配の問題があるのも事実」とし、環境税の導入を提唱。「分配にも影響せず、空気や水をきれいにするという経済の合理化をしながら財政を豊かにできる。経済の効率性、公平性にも効く一石二鳥の税だ」と語った。

伊藤純夫 木原麗花 編集:田巻一彦

いくつか思うこと。 

 

 浜田宏一のスタンスが数年前から変化しているのは明白でこのブログでも記録してきた。学者としては変化できるだけ良心的なんだろうと思わないでもないが、

 

前の日本銀行の総裁がどのように批判されたか、リフレ政策導入の過程で浜田が果たした役割、またネット上の言説での使われ方を思うと、やはり開いた口が塞がらないとしか言いようがない。

 

もう一つは、たびたび私はネット上のリフレ派をやり玉に挙げてきて、その中でfinalventさんには厳しいことも書いてきた。それは今でも考えは同じで、この人はネット上の影響力は小さくないのだから、スタンスを整理する必要はあっただろう。

 

同様のことは、finalventさんのみならず、リフレ論に加担して扇動の片棒を担いだ人たちは一体どう思うのかと言いたいが、

 

しかしこの人たちはどこまでいっても経済学者ではない。経済学を勉強したという人でもたいていは素人だ。

 

それよりも罪が重いのは経済学者たちだろう。どう考えてもこの人たちの責任の重さは重大だし、もっと批判されてしかるべきだと私は思う。そして経済学者たちの間で、経済学をどのようにして現実世界に、現実政治に応用したらよいか、真面目に議論してもらいたい。そしてこの10年、20年の経過から教訓を得てもらいたい。

 

政策を決定した責任者、政治家も責任から免れ得ない。この責任は絶対に問われなければならない。財務省陰謀論日本銀行陰謀論はみな大好きだが、役所は勝手に動けるわけではないのだ。

 

では私たち有権者は、どうすればいいのだろうか。本来ならば信頼すべき学者はこの有様で、政治家たちも当初は自民党内でも金融政策だけではどうにもならないという人たちが少なくなかったのに結局は押し切られてこうなった。

 

私には今すぐ答えを出すことはできないし、現実と向き合いながら考えていくしかないと思うが、少なくともどうすればいいかという疑問だけは抱えておきたい。あまりにもあまりな話であることには違いないのだから。

ところが、ネットを見ていてしばしば感じるのは、非常に固定的な考えで幸せを考えている人が少なくないということだ。

 

リアルでも一番よくある典型的なのは「結婚したら子供がいないと不幸」というパターンだと思うが、ネットを見ているとそれ以外にもたくさんありそうで、学歴の話もその一つになってしまっている。

 

あるいは何かというと「実家が太い」にすべて帰結させる議論なども、偏りの典型として挙げられそうである。私なぞ、「何も知らんからそんなことを妬みまじりで軽々しく言えるんだ」くらい、言いたくもなる。

 

・・・

 

そういう固定的な考えで、「あの人は幸せに決まっている」「幸せになれるからこうしろ」と他人にとやかく言うのも問題だが、

 

もっと問題だと私が思うのは「こうなっていない自分は不幸だ」と固定的な考えで自分自身を縛ってしまっている人で、これは本当に不幸だ。

 

幸せは人それぞれのはずであって、それは仮に世間の基準からずれているとしても、その人が幸せを感じるのであればそれでいいのだが、自分自身を固定的な考えで縛ってしまうと、その幸せを感じられなくなってしまう。

 

仕方がないから、世間に通用しているような幸せイメージを追求して、無理をする。当然、そこには幸せなんてないのである。そういう人はたいてい、体を壊すか、心を壊す。

 

すぐ目の前に、幸せがあるかもしれない。あるいは、自分が幸せだと思って追及しているものは、幸せでもなんでもないかもしれない。

 

そのことを、私はよく考える。ちょうど季節で、高校受験・大学受験の子供たちをよく見かけるので、そういうことを書きたくなった。