塾の先生が、中学数学の展開の公式をまず丸暗記しろとtweetしたら、なんて酷い塾だとボロクソに言われていた。

 

これに対して本人がブログで反論している。実にもっともな意見だった。

 

あれを批判する人たちは、子供たちの現実というものを全く知らないのだ。

 

・・・

 

もちろん、展開の公式は、普通に分配法則を使って解けば出てくるものであって、頭から「丸暗記」する必要は全くない。むしろ説明から入るのは当然だ。

 

ところが、そういうやり方がうまく行くのは、あらかじめ最低でも正負の四則演算が問題なくでき、分配法則を十分に理解しており、説明を理解する能力があり、そしてすぐに記憶できてしまう子供に限られる。

 

そういう優秀な子供は極めて少数だ。

 

四則演算や分配法則が怪しい子供は普通にいるし、何をどう説明しても全くピンと来ない子供も少なくないのだが、そういう子供に上記の説明をしても全く無意味で時間の無駄である。つまり、お手上げ状態になる。

 

ではどうするかというと、「なんでもいいから暗記しろ」と言うよりない。

 

そして、暗記してくれるどうか、暗記して使えるようになるかはまた別問題だ。

 

・・・

 

もう一つは暗記の効用を軽んじてはいけないだろう。

 

公式が成立している理由を理解することは大事なことではあるが、展開するのにいちいち分配法則を使ってゼロから計算していては時間がかかりすぎる。

 

さらにどうしてそういう公式が使えるのか教えようがない場合すらある。

 

たとえば、私は球の表面積・体積の計算ができるが、どうしてあの公式で計算できるのか、私は全然知らないし、説明もできない。教えられた記憶もない。

 

ただ暗記しているだけだが、それで中学校の数学としては十分すぎる。「どうして公式通りに計算すると球の表面積・体積が出てくるのか、まず説明しろ、そうでない先生はアホだ」と批判するほうが愚かではないか。

 

 ・・・

 

この種のことは何も数学に限らない。

 

あらゆる教科に言えることだが、どういう説明をいくらしてみても全く理解できない子供は非常に多い。むしろそちらの方が普通かもしれない。(私が大人の日本語能力を大変に疑っている根拠の一つはこれだ。日本語能力が怪しいままに大人になっている人が多いということなのだから)

 

そういう子供に最終的に言えることは「なんでもいいから暗記しろ」の一言以外にありえない。

 

ところが、たいていの子供は暗記するとはどういうことかそれ自体を分かっていないし、ましてや暗記の方法なんて出てこない。暗記しろと言ってみたところで、暗記なんてそうそう簡単にしてくれない。

 

それでも、無理やりでも暗記して試験にのぞむと、それなりの結果になることが多いのは当然で、実際のところ試験でそれなりに点を取るためであれば、暗記するだけで十分だ。それで本人が少しでもうれしい気持ちになれば、目下のところはそれでよいと思う。

 

無論、勉強するということはそういうことではない。そんなことは分かっている。しかし、本人の資質上、どうにもしようがない場合、他にどういう手段があるというのだろうか。

 

優秀な子供にはそれにふさわしい教授が必要であるし、優秀でない 、並み以下の子供にはその子供にあった教授がそれぞれに必要だ。

 

「展開の公式を丸暗記しろなんて!」と頭ごなしに否定できない現実が厳然としてある。

被差別部落の知人が私にはいるが(私の住んでいるような地域で、部落と無関係に生活することは不可能だ)、荒っぽい人ばかりというわけでは決してない。大変に穏やかな人も少なくない。

 

ある老人なぞは「場所によっては『これができん言うんやったら、できるまで足に鎖をつけて一歩も外に出さんど』くらいは言うところもあるで」と言ってカラカラと笑っていたが、昔を知る人だけに言葉に迫力がある。

 

それでも若い世代の人たちは、そういうやり方では社会に適応できないということをよく知っている。だから絶対にそういう態度は表に出さない。まったく穏やかな社会人として日常生活を送っている。


私はこれがいいことだ、時代の流れであって、あるいは社会の進歩だろうと思っている。

 

「足に鎖つけたるど」という言葉が出るには、それなりの歴史的背景がある。また、限られたコミュニティの中だけで通用するならば、そういうやり方でもいいかもしれない。

 

ただ、そのコミュニティの人たち自身も変わろうとしている。

 

ましてや、コミュニティ外の人間が、そういったやり方を是としてみたり、真似してみたりすることがあっては決してならない。

イタリアのテレビで、ある現代史家が、歴史家の役割を問われて、おおよそ次のように答えていた。

 

歴史を、スーパーマーケットの商品のように、自分の欲しい部分だけを取っていく人が多い。歴史家はそこで、こういうことがあるんだけども忘れましたかと指摘しないといけない。

 

もっともなことだと思う。無論、プロの歴史家はなんでも知っていて絶対に正しい、ということではない。

 

しかしここで言われていることはそういうことではない。

ネット・リフレ派を見てきたものとしては、記録しておかないといけない。

 

インタビュー:無理に物価2%目指す必要ない、消費増税に一定の理解=浜田参与 | ロイター

 

[東京 25日 ロイター] - 安倍晋三首相のブレーンで内閣官房参与を務める浜田宏一・米イエール大名誉教授はロイターとのインタビューに応じ、アベノミクスによって完全雇用に近い状況が実現している中で、日銀は2%の物価安定目標を無理に目指す必要はない、との見解を示した。インタビューは22日に実施した。

浜田氏は、日銀による大規模な金融緩和をはじめとしたアベノミクスの推進によって、日本の雇用情勢が大きく改善したと評価した。

もっとも、デフレ脱却に向けて日銀が掲げている2%の物価安定目標は、依然として実現が見通せない状況にある。

この点について浜田氏は「国民生活にとって望ましいのは、物価が上がることではない。同じ経済状態であれば、物価が下がった方が国民生活のためには良い」とし、「雇用情勢が大きく改善しているのに、『物価が上がっていない』と批判するのは、アベノミクスをおとしめるための手段だろう」と語った。


そのうえで日銀が掲げる物価2%目標について「絶対に必要というものではない」と指摘。現在の1%程度の物価上昇率でも「完全雇用に近い状態を達成できている」と雇用を重視し、「国際情勢が波高く、目標を取り下げる必要はないが、物価目標自体をあまり重要視せずに、少し様子をみていくということで十分ではないか」との認識を示した。

現在の良好な雇用情勢が変調を来せば「もっと金融で需要をつけないといけない」と緩和強化が必要としたが、「今の日本経済は需要が供給を上回っている。それが続いている限り心配はない」と語った。

労働需給の引き締まりにもかかわらず、物価がなかなか上がらないのは「日本の経営者、国民全体が20年間続いた景気と株式市場の低迷におじけづいており、非常に臆病になっている」ことが要因と指摘。「本来なら労働需要が高ければ、賃金を上げ、物価を上げればいいが、企業はそれを嫌がっている。トラウマが効いている」と説明した。

また、AI(人工知能)の普及によって「機械で代替できる仕事が増えている。正規職員の生産性が十分ではないので給料が上がりにくく、物価も停滞してしまう」と述べ、「日本は(AI普及の)進みが遅いとはいえ、それなりに影響が出ているのではないか」との見方も示した。


政府が10月に予定している消費税率の10%への引き上げについては「現在の良好な雇用環境の中で消費税が上げられないのであれば、どんな状況でも上げられない。一度は良いかもしれない」と一定の理解を示した。

もっとも、消費税には所得が低い人ほど負担が重くなる「分配の問題があるのも事実」とし、環境税の導入を提唱。「分配にも影響せず、空気や水をきれいにするという経済の合理化をしながら財政を豊かにできる。経済の効率性、公平性にも効く一石二鳥の税だ」と語った。

伊藤純夫 木原麗花 編集:田巻一彦

いくつか思うこと。 

 

 浜田宏一のスタンスが数年前から変化しているのは明白でこのブログでも記録してきた。学者としては変化できるだけ良心的なんだろうと思わないでもないが、

 

前の日本銀行の総裁がどのように批判されたか、リフレ政策導入の過程で浜田が果たした役割、またネット上の言説での使われ方を思うと、やはり開いた口が塞がらないとしか言いようがない。

 

もう一つは、たびたび私はネット上のリフレ派をやり玉に挙げてきて、その中でfinalventさんには厳しいことも書いてきた。それは今でも考えは同じで、この人はネット上の影響力は小さくないのだから、スタンスを整理する必要はあっただろう。

 

同様のことは、finalventさんのみならず、リフレ論に加担して扇動の片棒を担いだ人たちは一体どう思うのかと言いたいが、

 

しかしこの人たちはどこまでいっても経済学者ではない。経済学を勉強したという人でもたいていは素人だ。

 

それよりも罪が重いのは経済学者たちだろう。どう考えてもこの人たちの責任の重さは重大だし、もっと批判されてしかるべきだと私は思う。そして経済学者たちの間で、経済学をどのようにして現実世界に、現実政治に応用したらよいか、真面目に議論してもらいたい。そしてこの10年、20年の経過から教訓を得てもらいたい。

 

政策を決定した責任者、政治家も責任から免れ得ない。この責任は絶対に問われなければならない。財務省陰謀論日本銀行陰謀論はみな大好きだが、役所は勝手に動けるわけではないのだ。

 

では私たち有権者は、どうすればいいのだろうか。本来ならば信頼すべき学者はこの有様で、政治家たちも当初は自民党内でも金融政策だけではどうにもならないという人たちが少なくなかったのに結局は押し切られてこうなった。

 

私には今すぐ答えを出すことはできないし、現実と向き合いながら考えていくしかないと思うが、少なくともどうすればいいかという疑問だけは抱えておきたい。あまりにもあまりな話であることには違いないのだから。

ところが、ネットを見ていてしばしば感じるのは、非常に固定的な考えで幸せを考えている人が少なくないということだ。

 

リアルでも一番よくある典型的なのは「結婚したら子供がいないと不幸」というパターンだと思うが、ネットを見ているとそれ以外にもたくさんありそうで、学歴の話もその一つになってしまっている。

 

あるいは何かというと「実家が太い」にすべて帰結させる議論なども、偏りの典型として挙げられそうである。私なぞ、「何も知らんからそんなことを妬みまじりで軽々しく言えるんだ」くらい、言いたくもなる。

 

・・・

 

そういう固定的な考えで、「あの人は幸せに決まっている」「幸せになれるからこうしろ」と他人にとやかく言うのも問題だが、

 

もっと問題だと私が思うのは「こうなっていない自分は不幸だ」と固定的な考えで自分自身を縛ってしまっている人で、これは本当に不幸だ。

 

幸せは人それぞれのはずであって、それは仮に世間の基準からずれているとしても、その人が幸せを感じるのであればそれでいいのだが、自分自身を固定的な考えで縛ってしまうと、その幸せを感じられなくなってしまう。

 

仕方がないから、世間に通用しているような幸せイメージを追求して、無理をする。当然、そこには幸せなんてないのである。そういう人はたいてい、体を壊すか、心を壊す。

 

すぐ目の前に、幸せがあるかもしれない。あるいは、自分が幸せだと思って追及しているものは、幸せでもなんでもないかもしれない。

 

そのことを、私はよく考える。ちょうど季節で、高校受験・大学受験の子供たちをよく見かけるので、そういうことを書きたくなった。

私の住んでいる地域では、子供や孫の大学自慢する人が少ないという説がある。というのも、そこは大したことがないし、言ったところで誰も分からない、だから高校で自慢する。

 

「うちの子、○○高校で。。。」

 

というその高校が、どうして自慢のタネになるレベルだと信じているのか、私には理解が出来かねたりするわけだが。

 

・・・

 

ただ、出身高校でその人がおおよそどういう人かを推し量ることはできそうである。この人はこういう高校を卒業しているから、だからこういう感じだろうという判断は、よくやる。

 

もちろん、大人になって卒業高校も大学もへったくれもないし、それで決めつけることは断じてあってはならない。

 

「え、あの人、あそこ出てるの!へぇ!」

 

みたいなこともしばしばだ。

 

・・・

 

そのうえで、つくづく、卒業高校や卒業大学程度では人生は決まらないと改めて感じている。

 

地域で一番の高校を出て東大に行ったが、鬱になって帰ってきたら、周りとレベルが合わなさ過ぎて発狂した例などを聞くと、必ずしも東大に行くことが「いい」ことであるとは思えない。

 

発狂まではいかなくても、せっかく旧帝大の院を出たのに、地元で小売をやっている女性などが知人にいて、彼女もいろいろ思うところはあるだろう。彼女がどういう研究をしていたのか、話を聞いて「そりゃあ、おもしろいねえ」と一言言っただけで、非常に喜ばれた。研究内容を理解して面白いと言ってくれる人は、この街では私以外にまずいないはずである。

 

そうかと思うと近所にある偏差値50以下の高校をニコニコで卒業して、どこにその自信の根拠があるかと言いたくなるほど胸を張って生きているおじさんなど、東大卒でおかしくなった人よりはるかに幸せだ。

 

飲み屋で飲んでたら、元ヤンのママさん二人が飲んでおり、知り合いの子供がある高校に通っているという話をしていた。

 

「なにそれー!天才やん!」

 

と言っているその高校が偏差値55程度だったということもある。たぶん、「天才!」扱いされたその子は結構周りから持ち上げられて幸せなのではないか。

 

・・・

 

その人にあった道があるはずで、そこで幸せに生きることが大事なのだとつくづく思う。

 

世間的には、地域で一番二番の高校に行って、東大京大に行って、、、というルートが、さも幸せを保証するかのように語られる。とりわけネットでは、そういうことが妬みまじりで語られる時すらある。たとえば「東大に行けるのは『実家が太い』から」などと言うが、いくら「実家が太」くても本人の頭の出来次第でどうにもならないというのは今の総理大臣が証明し。。。それはともかく、人生はそれほど単純ではない。

 

高校や大学の入学試験の季節で、嬉しい顔ができた人もいれば、ため息をついている人もいるに違いない。山があり谷があるとしても、最終的にその人自身が幸せなら、それでよいのではないか。

日本と韓国の隣国関係は難しいものだと思うが、その理由の一つに言語問題がありそうなのは大変に面白い。

 

韓国のテレビドラマを、字幕ではなく、韓国語が分かる人に隣で翻訳してもらいながら見ると、きれいな女優さんがとんでもない罵詈雑言を言っていたりするのがよく分かる。

 

日本でも、今ではあまり悪口の類を言わなくなったけれども、昔はもっと多様な表現があって、日常的に使われていたはずである。私が生活している街でもそうで、子供の時には同級生たちが使う「きたない」言葉を学んで耐性をつけたものだった。

 

とはいえ、韓国語の罵詈雑言を、そのまま日本語に訳すと、普通の日本人はびっくりしてしまうので、 適当に丸めて訳す必要があるのだろうが、しかし悪いことに直訳で意味が通るように見えたり、漢字を使う表現などはそのままになってしまう。同じ熟語の韓国語での使われ方と日本語での使われ方の差を無視したまま「翻訳」されてしまうことがありそうである。

 

隣国・隣人を理解することはかくも難しい、ということなのであって、事情はヨーロッパでも大して違わない。

 

問題は、隣人を理解することはかくも難しいということが自覚されているかどうか、という点に尽きる。これは、日本でも韓国でも、あまり自覚されておらず、せいぜい自分たちの党派を支持する人々の顔色が意識されている程度のようだ。

 

愉快なものだ。