以前、「日本博」構想の話を書いた。

https://jura03.hatenadiary.jp/entry/2019/01/04/010527

 

津川雅彦が「世界最古の縄文土器を初め、仏像、 浮世絵、美術、伝統ある漆器、陶器、磁器の工芸、着物、盆栽、そして、縄文のアニミズムの信仰から鳥獣戯画を経て北斎漫画、アニメーションに至るまでの歴史的展示を行う」ものだと吹いたので、気持ち悪さが増すわけだけれども、

 

それに対して私は、学校教科書レベルだとこういう認識で記述されていないか、と書いた。だから、これを気持ち悪いというのは分かるけれども、教科書を書き換えない専門家のほうにも問題があるだろうと。

 

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東京の国立博物館に行った。本館の常設展示のほうを見ると、おおよそ津川雅彦とほぼ同じような展示がされてあった。鳥獣戯画やアニメはないにしても、思想としてはほぼ同じだ。

 
つまり、ナショナリズムというのはこういう形で当たり前のように既にあるので、あたかもそれが「自然」であるかのように錯覚され、いざ批判しようにもすでに是認されているのになにをいまさらという話にしかならない。
 
無論、津川雅彦のような人の雑な暴論と国立博物館は違うけれども、しかし津川を批判するならば、国立博物館も批判されるべきだろう。

 

「日本」や「日本人」がかくのごとく相対化されていないわけで、その結果、右派のナショナリズムを批判する左派も「自然な」ナショナリズムにからめとられてしまい、相対化して考えられていない場面が多い。

 

こんなことでいいわけがない。

 

 

 

先日、大阪に行ったが、東京の直後だと、違いが際立つ。明らかに人々の目付きが違う。歩く様子も違う。

 

少しホッとする。

 

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ただ、東京の人間は冷たい、という話をパリっ子にして見たら、そりゃあいいじゃないか、サイコー、などと言う。

 

おい、パリやと道端で人が倒れてたら助けんのか?と聞いたら、そいつがこっちを襲って来たらどうする、と返された。そりゃそうだ。

 

たとえば、ベルリンでもサービス業などはいたって冷たい。知人のベルリナーが、久方ぶりにベルリンに戻り、スーパーの会計で全く無愛想にドンと商品を扱っているのを見ると、安心するのだそうだ。

 

しかし、そうは言っても、先のパリジャンは、近所のショッピングセンターで小さな子供がはぐれて泣いているのを見て、心配してしかるべきところに連れていき、親が来るまで見ていたりして、他人に対して無関心なわけではない。

 

ベルリンがいかに無愛想でも、他人に無関心というわけではないだろう。

 

東京に感じる、他人に対するあの絶望的な無関心は何か、これがどうも引っかかる。

東京にいると、保守化が進行する時勢もよく分かったような気がした。

 

私が住んでいるような地方都市が保守的なのは、最初から知れていることであって、かつ高齢化も進んでいて、こういうタイプの保守化は分かりやすい。

 

また、全国的にこれはそうだと思うが、観光客としても労働者としても外国人が増え、こういう現実に対して各人各様に向き合った結果、では私たちは何者か、と問う場面が明らかに増えている。

 
それに一番うまく応えるのが明治以来のナショナリズムで、これと(今の)右派は親和性が高い。
 
同様の流れは他の先進国で感じられるわけで、日本も免れ得ない、ということだろう。
 
もちろん、この種のナショナリズムは、どうしても独りよがりになるので、乗り越えられねばならず、いずれ揺り戻しがあるとは思うものの(Brexitのてんやわんやを見て、他のヨーロッパ諸国のポピュリストたちがEUEUROからの離脱を言えなくなった、などという話はその典型的だろう)、注意は必要だ。
 
実際、そういう心理が金儲けの種になって、政治的傾向を問わず、無責任な言説の温床になっているわけだ。
 
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さらに東京という街の気分そのものに、「和」「日本」を軽薄に求める部分がないか。
 
「和」を強調したイベントや宣伝をよく見かけたが、表面的に「和」なるものを消費しているようにしか見えない。
 
あえて言えばコンプレックスのようなものを感じる。つまり東京には「日本の伝統」なるものがない、あったとしてもどう転んだって京都と奈良には勝てない(このあたり、京都の宣伝は雑誌の特集記事などを含め巧みだ)。
 
だから、「日本文化」の消費のされように根っこを感じない。「和」や「日本」を連呼すればするほど、作り物めいてくる。それは、名人上手がほとんど死に絶えた歌舞伎座で歌舞伎のようなものを演じて、これが日本の伝統でございと見せているのと似ている。
 
しかし、文化とか伝統とかいうものは、そういうものではないのではないだろうか。あるいは生活に密着したものであり、あるいは命がけで伝承・発展してきたものであって、表面的に消費していいものとはとても思われない。
 
こういったこと諸々のことがすべて保守化を加速化させるために機能しており、無論オリンピックはその最大の契機になっている。
 
 昔、初めて靖国神社を訪れたとき、近畿の神社仏閣に慣れた私は「なんだこれ」と思った記憶がある。ロンドンのようにブロンズ像が立っており、むやみに立派な石畳が敷かれている。私の知っている神社とはまるで違う。確かにそこにあるのは、明治時代に無理やりこしらえられた「日本文化」だった。
 
あんな作り物めいたものが「日本」だとしたら、こちらから御免蒙りたい。
 

久しぶりに東京に行ったが、今回は考えさせられることが多かった。

 

特にこの街は人間が多すぎるために、人間関係のありようがおかしいのではないかと思う。

 

 

よく言われることだが、人にぶつかっても謝りもしないし、平気で人を押しのけ、人が座っている椅子を無理矢理動かす。

 

一声かければ済む話のことをほとんどやらない。私の住んでいるような地方都市で、これはできない。

 

つまり、人間が多すぎるので、少々のことで謝っていたら切りがない、ということであって、それはよく分かるが、これは結局、他人に対する過度の無関心しか意味しないのではないだろうか。

 

たしかに、どこでも都市生活者は多かれ少なかれそういう傾向があるとはいいながら、知らないもの同士でも声をかけあうことは、ヨーロッパなら普通に経験したことを思い出す。少なくとも、ここまで他人に対して無関心である感じを持ったことはない。

 

知人女性は東京のさる駅で貧血で倒れていたら、駅員が対応するまでほったらかしにされていたそうで、こういうことは他国では考えられない。私はローマで、バスの中で倒れた老人を皆で病院に連れて行く場面を見たことがあるし、顔から血を流していた路上生活者のおじさんを救急車が来るまで他の通行人と一緒に面倒を見たことも私にはある。

 

そういうことを知っているので、他人に対する過度の無関心ぶりに恐れ入ってしまった。

 

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他人に対する過度の無関心の裏返しとして、仲間内・身内だけしか見ていないこともよく感得された。

 

今の日本人がなんでここまで身内の内部しか考えないようになったのかと前々から思っていたが、なるほど、ようは東京だと普段からこうなのだ。仲間内・身内を優先させて平気でいる。

 

だから、他人との接触の仕方が全く分からなくなってしまっているように見える。

 

その割に、他人からどう見られるかということだけは過度に意識しており、私には意味不明だ。これでは、病んでしまうだろう。

 

 

 

 

日本にあるのは、右翼左翼よりも、大衆迎合主義という意味で、悪い意味のポピュリズムだけだったし、今でもそうだと思う。

 

大衆迎合的な言説が先にあって、それがたまたま左に合致するか、右に合致するかの問題で、その逆ではない。

 

悪い意味でのポピュリズムの拡大の点で、今のご時世、どこの国を見ても似たような状況になっているらしいので、いずれ私も少し勉強してみたいとは思っている。

 

こんなことでいいわけがない。

前回の記事で、高校受験の面接試験を受ける中学生たちが、「ノックは3回でないといけない」「ノック2回はトイレ用」という話を鵜呑みにしていて、呆れた話を書いたが、こういう記事があった。

 

「面接でノック2回」「室内でコート」は本当に失礼? プロのマナー講師に聞いてみた(ITmedia ビジネスオンライン) - Yahoo!ニュース

 

ですので、私は「ノックを3回しない人は間違っている」「このマナーに絶対従わないといけない」と断言するつもりはありません。ネット上で「回数は気にしなくていい」という議論があることも知っています。

 ですが、マナーに敏感な人が増えており、「2回は失礼」と考える人が一定数存在することも事実なのです。「マナーは他人を不快にさせないためにある」というのが私の考え方なので、気にする人がいる以上は、ノック回数に気を配るべきだという考えのもと、2回ではなく3~4回ノックするよう指導している次第です。

 

この理屈を見ると、他人が何に不快さを感じるのか、だれにも分からないのに、そこを基準にして「マナー」をこしらえていることがよく察せられる。

 

では誰かが「3回のノックはこれこれの理由で失礼」という話をでっちあげて拡散し、それを信じる人が出てきたらどうなるのだろうか。


本当に「マナー講師」ならば、つまり「先生」といわれる人ならば、「不快」に思うほうが間違っているとはっきり言わないといけないのではないか。

 

どうしてそこまで他人の「不快」に振り回されねばならないか。

 

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「マナーに敏感な人が増えてきている」というのは、真偽不明の「マナー」なるものを根拠に威張りたい人間が多い、そしてそれに振り回されている人が多い、という面もあるんだろうと思う。

 

実際、この記事の冒頭でも記者が、アルバイト先でノックを2回したら、激怒された話をのせているが、そこで激怒するほうがバカだとどうしてはっきり言えないか。 

 

実際、後にも先にも、そのことで激怒されたことはないということだから、その種の人間がいかに愚かか、よく証明していると思うが、「マナー」というのはバカに合わせることらしいからいかんともしがたい。

 

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「他人を不快にさせる」という大変にぼんやりした基準で行動することを気にし続けなくてはいけないから、

 

だから、随分病んだ人が多いのではないか。コミュニケーション上の問題から、対人関係を過剰に気にする人が少なくないのではないか。

 

なにも、私がまともだというつもりはない。しかし、こういう無駄なストレスに正当化を与えて流通させることには強く抵抗したい。

 

単純な話、他人の不快を気にするあまり、自分の不快のやり場がなくなるようでは、そりゃあ病むだろう、と思われるのだ。

国語教育、特に古文漢文不要論にどう対応するかという議論を見た。

 

私は文系のくせに国語が苦手で数学の方が好きだったし、学校の先生でもない。だから、専門家たちで難しいことは議論して欲しいと思っているが、私自身としては、現代日本語も、古文漢文も、教育する必要性は自明で、不要論が出ることそのものに面食らってしまうところがある。

 

というのも、日本人だから日本語ができて当たり前だとたいてい思われているが、実際のところははなはだ怪しいからだ。

 

これに気がついたのはネットの議論を見ていたときで、以下、国語が苦手な自分のことは棚に上げて言ってしまうが、読解能力が根本的に怪しい人が議論していたりするのはよく見る光景だ。そういう人は当然作文能力も怪しい。

 

これは、学歴や職歴はあまり関係がないらしくて、たとえば国立大学の教授クラスでも、専門の論文の読み書きはできるはずなのに、それ以外になるととんとダメになる場合があるように思う。これは訓練の結果、能力が偏ったということもあるだろうが、そもそもの日本語運用能力の問題がありそうで、つまり日本語でものを考えることが、専門分野のようにできないのだが、専門ではちゃんとできているので、そのために能力の偏りが自覚できていないらしい。

 

学者でこういうことがあるのだとすると、まして一般の大人や子供になると推して知るべし、だろう。

 

慣用句や熟語の類を何も知らないし、文法の知識もなく、それでどうやって読み書きができるのか、私には全く分からない。熟語どころか、小学校の漢字ですら、子供も大人もかなりあやふやな知識しかもっていない。

 

古文漢文の必要性も自明のはずで、現代日本語は古典に支えられて存在しているのであって、単に語彙の面から見ても古典抜きにして日本語を運用することは不可能なはずだが、現実には誰も古文も漢文もまともに勉強していない。

 

以前、ある金融関係者が、古文なんて勉強しても無駄だ、未然形プラス「ば」、已然形プラス「ば」の違いなんて、何に使うのか、と書いていたように記憶する。

 

私はこの人に、「なぜ急げば回れではなく、急がば回れと言うんですか、それとも貴方は急がば回れと言ったことがないんですか」と、聞いてみたくなった。

 

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ただ、これはかなり理想論の面があることも否めない。

 

たいていの人は、たいして日本語ができなくても十分に生活できている。私の住んでいる地域の自治会のおじさんは、夜間高校から某大手電機メーカーに長く勤め、それなりのポストについた人で親しくさせてもらっているが、この人は日本語が読めない。そのために、市が配布する文書が読めず、近所の心安い人に読解してもらっているそうである。

 

また、中学生レベルでも、国語の教科書が読めない生徒は少なくなく、そのために理科や社会でなにを言っているのか全く理解できないケースは決して珍しくない。(念の為に書くと、中学校の現代文は意外にレベルが高いと思う。私は日本語を勉強するイタリア人に、小学校高学年から中学レベルの日本語の文章をイタリア語で教えてやった経験があり、苦労したことがある。あれは結構難しいように思う)

 

こういう子供たちが社会に出ても生活はできるはずで、国語の教科書が読めなかった元・子供である多くの大人たちが現実に生活できているのだから、国語教育不要論・古典教育不要論が出てきても当然だろう。

 

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それに、今の国語の教科書がよく出来ているのかどうかもよく分からない。少なくとも古典に関して、義務教育レベルで教えられていることはあまりにも無内容ではないか。外国語学習と同様に、しっかりした文法と語彙を学ばないといけないのに、あまりにも量が少なく、中途半端で、あれを学ぶことに意味があるのかどうか、私には疑問だ。

 

 高校でどうせもっとしっかりやらないといけないんだから、古典文法くらいきっちり教えた方がよい。漢文も、あまりにもあれでは貧弱で、やるだけ時間の無駄だと言われても反論のしようがない。

 

・・・などと言い出すと、中学と高校のカリキュラムの全面見直しが必要だという話にもなりそうで、ここから先は専門家の議論を待つよりない、ということになる。

 

だいたいこういうことを書いてはいるものの、教科書がああなっているのも、先生の側の事情などなどを察することはできるので、やむを得ないのかなあとも思っている。難しい問題には違いない。

 

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では本当に国語教育に意味はないか、義務教育で古典を教えることに意味はないか。

 

上に書いた日本語の読み書きがかなり苦手なおじさんは、それでも一応は学校を出てから社会生活を全うしたのであって、何も勉強しなかったわけではない。

 

最初から何も教えられないということと、教えられたけれども自分は勉強しなかった、できなかった、する気にならなかったということには、雲泥の差があると私は思う。

 

私が見かけた、古典文法など勉強して何になるかとのたもうた人は、そこらのおっさんではなく、金融関係者で、それなりの教育を受けた、それなりの学歴の人のはずだ。その人にしてこの程度の認識だということ自体、国語教育があまりうまく行っていないことの証拠なのかもしれない。

 

言葉をたくさん知っているかどうか、言葉をよく理解しているかどうかは、世界を正しく認識して、筋道立てて考えるために絶対に必要な条件であって、それに資する現代日本語・古典の教育であって欲しい。そうすることで、子供たちを少しでも良い方向へと導いて欲しいと、私は念願している。