「安倍はヒトラー」というときは、たぶん「安倍晋三は議会を無視する独裁者」程度の意味なんだと思うが、今「小池はファシスト」「小池はヒトラー」というと、「独裁者」というニュアンスもあるのかもしれないが、それよりも「扇動者」の意味合いのほうが強いんだと思う。

真面目な話をすると、ファシズム体制と扇動の関係はそれほど自明ではない。「扇動」の意味合いにもよるのかもしれないが、その場その場の空気で大衆に受けそうなことを言って、またそのためにコロコロ言うことが変わる、という意味であれば、ファシズムと扇動との関係はやや疑問だ。

それよりも、ファシズムと暴力の関係のほうが深い。

ムッソリーニがジョルジュ・ソレルの「暴力論」を読んで深く影響を受けたことはよく知られているけれども、ムッソリーニと暴力とは縁が切れない。

ムッソリーニは1919年に「戦闘ファッシ」を結成したが、これは社会党や機関誌、その関連団体・機関などを暴力で叩き潰し、人にも危害を加える組織だった。ただ、その前に革命勢力も暴力と無縁ではなかったので、今の日本で言えば、ヘイトスピーチを絶叫して暴れまわる右翼に対して抵抗する「しばき隊」なぞ、「戦闘ファッシ」に発想は近いのかもしれない。

とにかく、暴力で対抗勢力や反対勢力を叩き潰していく人たちなので、理念的にもかなり過激・原理主義的だった。こういう人たちが、ファシズムの最右翼の強硬派だった。

ムッソリーニはこのような暴力を足掛かりに、最終的には1922年10月のローマ進軍で政権を奪取するに至るが、ムッソリーニ本人はこの暴力を全く是認していたわけではなく、脅しとして利用しはしたものの、自分のコントロールに収まってくれないようでは困る。実際彼ら強硬派は必ずしもムッソリーニの意のままになったわけではない。1921年にムッソリーニ社会党などの議会勢力と妥協しようとしたときに、最も反対し、事実上妥協を破棄させたのはこの強硬派だ。こうしてしばしばムッソリーニを困らせた。

当然、この暴力だけでは政権をとれない。なにより、革命勢力の暴動・社会不安のなか、秩序と安定を求めていた世論は、それに対抗するためとはいえ暴力が過ぎると、やはりそれは行き過ぎとして受け止められ、ムッソリーニに対する支持を危うくする。また既存の支配勢力・資本家層との結びつきが政権には必要だ。

かくして、暴力的な強硬派だけではなく、より旧来の体制に近い現実派が並立することになり、この二つのバランスの中でファシズム政権は発足し、ムッソリーニは両者のバランスを巧みにとりながら、以後20年にわたって政権は維持されることになった。

とはいえ、強硬派は常に黙っていたわけではない。1924年、社会党の議員であるマッテオッティが誘拐殺害された事件で窮地に陥ったムッソリーニを、最後まで支持したのはこの強硬派で、現実派・守旧勢力は「革命勢力が政権をとるよりもまし」ということで強硬派に譲歩して、危機を乗り切った。このように、強硬派はムッソリーニにとっては、大事な、無視できない勢力ではあった。

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つまり、ファシズム体制というのは、暴力によって異論を封じ、あるいは他を脅迫するところにポイントがあり、いわゆる「扇動」によって多数派を形成した勢力が政権を奪取した、というものではない。むしろ少数だからこそ暴力が求められたと言える。