ネット○○派 part145 フィクションでリアルを見ることの愚

最初、シャレで「オタク脳の恐怖」という題にしようかと思ったが、毒が強すぎるのでやめにした。

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件の条例案、マンガ好きやオタクの間でも、割りに冷静なのとヒステリックなのと両極端なのはこういうことなんじゃないですか。

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落ち着いた冷静な人の場合、リアルとフィクションを完全に切り分けて物事を考えられている。だから、自分の趣味も自虐ネタにもっていける。ひどい趣味でどうもスイマセン。


ヒステリックに反応する場合、たぶん、フィクションやファンタジーでリアルを見ることに違和感がないんじゃないのか。


たとえば、条例改正案の対象が議会も通さずにむやみに拡大することは非常に考えにくいし、日本の民主主義も基本的には安定してる。まして戦前の治安維持法を例示するのは極端で、あまりにも現実から遠い。


表現が萎縮するっていうけれど、条例が対象とするような非常に限られたマンガ・アニメを成人向けにするだけで萎縮するか?それで本当に萎縮するようなもんなら、偉そうに世界に誇る日本文化とか言わんほうがいい。


つまり距離があるものを距離がないように、あるいはわずかな可能性をことさらに大きく考えて興奮するのは、ファンタジーでリアルを見ているってわけでしょう?

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このあたり、ホメオパシー叩きやネトウヨ・はてサの政治運動でも同じだろうと思う。「○○の危険性!」とか言って煽り倒すの、つまりファンタジーが優先していて、リアルがない。


つまりリアルの認識能力というか感覚が違うんじゃないかと、前々から疑問だった。
藤本由香里は漫画の女性差別で表現の自由の規制派に理論提供した張本人 | 反省の女性学

藤本由香里以外にも、少女漫画の現実の構築性を言ってきた者がいる。横森理香『恋愛は少女マンガで教わった』(集英社文庫)の「まえがき」にも、「少女マンガに恋愛・結婚観を教え込まれていた」「私たちはまったく、少女マンガにその脳を侵されている」「少女マンガからすべてを教わってしまった私たちは、実にそのとおりにしか、生きられなくなってしまっている」とある。


『いとしさの王国へ―文学的少女漫画読本』(マーブルトロン)のはじめにある「文学的少女漫画のいざない」にも、「女の子の<生きる>ことの入口にはいつも少女漫画があった」「私たちは少女漫画でできている」とある。「私たちは少女漫画でできている」というのは、非常に露骨に、少女漫画という虚構と現実の区別ができないということだ。

こういう部分は、男も女も一緒じゃないの。