コロッセオで歓声を上げる人々

最初は笑ってたけど、読んでるとだんだん気分が悪くなってきた。
はてなブックマーク - オーリングテストが明らかにした身体に悪いものリスト - NATROMの日記

原理は「こっくりさん」と同じと思われる。
オーリングテストが明らかにした身体に悪いものリスト - NATROMの日記

すばらしく科学的な態度ですねと言いたくはなったが、それは冗談としてエントリ自体は普通に笑えるので別に。


しかし何だこのコメント群。「似非科学」「ニセ科学」タグが「あたま悪い」タグに見えて仕方がない。


この人たち、ようはたんに馬鹿を見下して喜びたいだけじゃないか。ネット右翼やはてサが仲間うちには「これはすごい」それ以外には「あたま悪い」タグをつけるのと同じだ。なにも電波の語法まで真似することはなかった。



あー気分悪い。

善意の怖さについて

NOV1975さんの別館のエントリを読んで、ちょっと思った。

科学が超えられない善意の厚い壁 - novtan別館
善意による医学の否定 - Dr.Poohの日記


じゃあ、上のブクマで歓声を上げるような人たちに善意がまったくないかって言うと、これが違うんだよね。たとえばホメオパシーを扱ったある人のエントリーでは、

:もちろん、そんな不明なものを効果があると思わせて商売にするなどというのは言語道断です。(法律的な意味ではなく)一般的な意味で詐欺です。
ホメオパシーは「効果が確かめられていない」方法ですらない - Skepticism is beautiful

エントリそのものはよく分かったし、このフレーズでも言いたいことはわかるんですよ。僕も同感だから。でもね。


ホメオパシーがいかに間違っているかという指摘は、科学の立場からなされなきゃならないことのひとつだ。これはそうだ。でも、ホメオパシーを商売に利用することが詐欺かどうかの判断は、科学がする範囲を超えている。法的にはともかく実質詐欺であり、かつ言語道断だと判定してこれを正そうとするのは、個人レベルではともかく、科学のやることじゃない。研究発表とかでは間違いを正すことは必要だろうけど、ここはそういう場所ではない。だから、どっかで線引きをする必要がある。


そこの線引きができてない人が多い印象が僕にはある。「善意」エントリのブクマコメントで

pbh 馬鹿はそれだけで罪。だから教育が必要。
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ってのが出てくる。勘違いしてるでしょう、この人。オーリングのエントリのコメントでも、

Seagul-X 2009/02/04 22:35
>こういうひと(ら)が苦しんでいる様子を嗤いながら観察して楽しむのはいかがなものかと思います。

そうですよね。豊岡憲治医師の言葉に騙されて振り回され、不利益を被るひとたちのことを思えば嗤いごとではないですよね。ここは是非、Ebis さんが糾弾のエントリをあげてくれることを期待します。
オーリングテストが明らかにした身体に悪いものリスト - NATROMの日記

言葉面はともかくとして、科学の名でもって不利益をこうむっている人がいるのをみすみす黙って見過ごせないという、まず善意には違いない。動機がそこにある。だから正そうとする、再教育しようとする。


でも言葉の表面にでているように、傲慢だ。科学の名が汚されるのがけしからんだけならば、ニセ科学のニセっぷりを笑うだけならば、詐欺だろうが不利益をこうむる人がいようが、関係ないはずなのに。だいたい糾弾って何なんだ。現在のニセ科学批判似非科学批判の精神が糾弾にあることを暴露してどうする。


じゃあどうすると言えば、基本的に馬鹿はほっとくしかない。不利益をこうむるからとかなんとかというのは、それは科学としては一線を越えて、余計なお世話に過ぎる。上のお医者さんでさえ、努力に限界があった。そしてそれが当然だ。まして科学者になにができるというのだろう。できることは、間違いを正そうとすることではない。淡々と間違いを指摘すること、それが理解されなければ相手にしない、ただそれだけじゃないのだろうか。


もし間違いを正そうとするならば、一般社会では科学とは別の範疇の問題だから、そういう名目(たとえば「ニセ科学詐欺を退治する会」とか「似非科学にだまされないぞ運動」とか)でやったほうがいいと僕は思う。そうなると、もちろん中身はおいとくとしても、ホメオパシーやオーリングや糖尿病の健康食品の宣伝営業とやってることが変わらなくなりますよ。おそらくね。


そこが分からない、分かってないから、ああ、この人たちはネット右翼やはてサのコアな連中と大して違いないなあと見える。自分が正しいことにむやみな確信をもっていて、群れて馬鹿にして喜んでいてね。


あー気分悪かった。


追記
とりあえず、はてな村民がどうのという文脈は抜きにするけれども、これはそうだと思う。

こういう形で言うとしたら、俺個人については「理解もできるし容認もできるけど、他者にまで容認を求めるものではないと考え始めた」になるのかな?


どこまでが自分の属する文化で、どこからが相手の属する文化なのか、見極める意識・慎重さを心掛けることにした、ってほうが正確なのかもだけど。


容認しろと言う側と嫌悪感を示す側がいたとして、容認派が求めるものって理屈を捏ね回してまで求めるほどのものなのか、それってただの原理主義者でしかないんじゃないか、とかも合わせて。


っていうかさ、郷に入っては郷に従え、は相手の文化圏に踏み込んだ時に言える言葉だし、そもそも容認とかどうとかって言う事自体おかしいような気もするけどね。


文化圏が違う人間は容認できるできない関係なく、自分の属する文化圏ごとに自然と「住み分けてる」もんだから。


ネット上だとあっさりその境界を踏み越えて(わざとにしろ知らずにしろ)衝突が起こりやすんだなぁって今更実感したってだけの話じゃないかな。
大元のエントリーの追記をもってこの回答が本人のものだっていう証拠にし..

僕は、この部分にずっと四苦八苦している人間だ。ある記事を読んで何かを言いたくなるということは、そこで既に「衝突」が発生しているんだから、衝突を回避することと何かを書くことは根本的に矛盾する。このことはまた書くかもしれないけれど、この距離感のとり方は本当に難しい。ネットでは特に。


で、増田さんが言っていることと同じことを、上記のブクマを見ても感じた。