私は自分では中道右派のつもりで、たとえば、憲法9条を変えるのは賛成で、どちらかというと小さい政府のほうが好ましいと自分では思っている。そのうえ、左派はどうも好きになれない。

ただ、そういうふうな考えの人間だからといって、必ず右派を擁護しなければならないわけでも、左派を批判しなければならないわけでもないと思っている。

厭なのは、知らず知らずのうちに党派性がきつくなってくることで、私の印象だと、Twitterで一般的にその傾向が強くなったようには感じている。

たとえば、左派のことを笑って、むやみに攻撃的だ、極端だ云々と言うとしよう。そういえば、先日もレオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」をネタにして、安倍政権の「最後の晩餐」みたいなのを左翼がやっていたのを見かけたけれども、本当にセンスが古いし、絵がダサくて反吐がでそうだった。

ただ、そう言って左翼を笑う右派は人のことを言えるのか、と思う。安倍内閣を支持する右翼にも相当なのがいて、平気で毒素をまき散らすようなのがいる。これはどうなのか。

これは立場を入れ替えても言えるはずで、右翼を笑う左翼だって、ということはあるように思う。

そういう反省が、右にも左にも欠けている部分が、あるいは場面があるのではないか。

そういう反省があれば、もっと穏やかなものも生まれるはずだが、現実にはそうなっていない。これはどうも日本に限った話でもないようで、「穏健」とか「中道」というのは今時、流行らないものらしい。

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ネット上の徒党という観点から、「ネット〇〇派」と勝手に名付けて、ネット右翼ニセ科学批判、リフレ派などを観察してきたが、いずれも厭なのは過度に党派的であることだった。

過度に党派的になると、そのグループは先鋭化せざるを得なくなるのは自明の理だ。このブログでは、延々とそのことにうんざりしてきた。

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過度に党派的になることを避けるのはどうすればよいか。

そんなことの対処法は私もよく分からないし、私なぞはそれが嫌だからこのブログのコメント欄を閉鎖して、できる限り他人とつるまないようにしたのだが、ただ、結局立ち止まって迷う、分からないから悩む、ということがあるのかもしれないとは思う。

それは上のような例でもそうで、右翼はダメ、左翼も変だ、じゃあどうしようかとなったときに、立ち止まって少しは悩むはずだろう。

そこで自分が属していると考える党派に言動の針を振りきってしまおうとするから、変な義理立てをしようとするから、だから問題が出てくる。

あるいは、正義が昂進するのはおかしいと思う。正しいからと言ってなにをしてもいいんだ、というわけにはいかない。しかし他方で、それでもなにかないと、今度は相対主義的が行き過ぎてしまい、他人は他人、俺は俺、俺の勝手だほっといてくれ、でいいことになってしまう。それはそれでおかしい。

となるとやはり、よく分からないので、考える。

悩んだり考えたりというのは、過激になることに対するバランサーになるのではないか。

そういう私自身は極端な面も持ち合わせており、人様に偉そうに言う権利はいささかもないので、これはあくまでも自戒だ。

ただ、そうやって知らず知らずのうちに過度に党派的になるようなことは避けたいとは思っている。