こないだも、高校生が面白いことを言っていた。

 

「生徒会なんて、先生にいい顔をして、内申点稼ぎしたい子しかいませんから」

 

その子はそう言って憤慨していたが、ああ、そうだろうなあ、と私も思った。

 

こういう言い方をすると、真面目に生徒会活動をしている子も私は知っているので、別の側面があることにも一応の理解はあるつもりだが、たぶん問題はこういうことなのだろう。

 

つまり、内申点というものがいろいろな問題の元凶になっているらしいということは、今の中学生高校生の生態を見ていると、なんとなく察してはいた。

 

勉強だけではなく、部活動や日常生活など、学校生活のありとあらゆることが内申点という形で反映してしまうため、先生に逆らうようなことはできない、あるいは先生でなくても、先生の顔色をうかがう「やる気のある(笑)」タイプのアホに、「お前はアホか」と言って喧嘩することができない。

 

そのあたりのことを指して、「先生の顔色をみて、内申点稼ぎをやる生徒」という言い方になるんだろう。

 

これは高校だけではなくて、中学校でもそうだ。

 

学校のお勉強よりも、こういうことのほうが、教育上、はるかに問題ではないか。

 

子供たちの話を聞いていると、おかしいことはおかしいという認識自体は持てている。単に、ものが言えない、行動できない、というのがネックになっている。

 

アホの言うことを聞くのはまっぴらゴメンだという子供を育てるほうが、はるかに大事だし、それが自主性というものだろう。

 

そのせいかどうかは知らないが、大人の世界も、学校のまんまのアホがはびこっているようにしか見えんではないか。

 

・・・

 

学校が一番荒れた世代の人たちの現在も知らないでもないが、いろいろあるんだろうが、立派に人生を送っている人も少なくないように見える。

 

頭が悪くて、性格的にも人間的にもいかがなものかというような教師たちに従順な子供よりも、学校のガラスを割り倒す子供のほうが、まだよかったのではないか。

 

先日、小学校の修学旅行で非常な悪さをして、宿にも大きな迷惑をかけた子供の話をその母親から聞いた。

 

母親とその子で宿までわざわざ再度行って謝ったそうだが、私はお母さんに、

 

「今時珍しい、ようやったようやった!」

 

と大笑いしながら、その子を褒めた。

 

私の子供の時分は、今思えば、そんなもので良かったはずだ。大人の勝手な都合、責任をとりたくない小心で、子供を締め付けて、それで何かいいことがあるかというと、何もないだろう。