黙っていられないこと part4

アサヒ - おおやにき
以前も書いたように名古屋大学大屋雄裕准教授は私が最も信頼を置いている先生の一人なんですが、よくよくこの記事を読んだら、「アサヒ」という揶揄的タイトル、以下、冒頭の導入部分はおくとして「普段なにを言っていようが今回黙ってるような連中は」云々、「週刊朝日がジャーナリズムの名に値しないクズ雑誌であることはもう周知の事実じゃなかったのか」以下の週刊朝日に対する罵倒、これらはすべて肝心の記事の違法性に関わるものとは全く無関係です。


もっとも、「アサヒ」に対する不信感そのものは同意するわけですけれども。

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なんでこうなるのかなぁと思えばこういうことでありました。
おおさか - おおやにき

いやもちろん私は手続的正義を重視するリベラルなので橋下氏のようなポピュリストというかアジテータというかは嫌いなのであるが、じゃあ彼に対抗する側がそれを守ってきた人々であったかといえば全然そうではないので、むしろ手続的中立性は実質的に多数派支配を容認・助長するとかいって(いやそれ自体は多分に事実ではあるのだが)その排撃を唱えてきた方々も多いわけである。それに対して私は、いやそれでも手続的正義は重要であってそれを尊重することが弱者ないし少数者にとっても帰結主義的に正しいのだと主張してきたわけだが、その相手の人たちが、手続的中立性を軽視ないし無視するポピュリスティックな多数派に直面した途端に手の平を返して泣き言を言い出したとしても、まあ同情はできないよね。いやしかしこういう時だからこそ巨大な敵に対抗するために人民戦線だという人もいるのだろうが、ベトミンと同じ目に遭うのはイヤだなあ。

この議論自体は非常にもっともでありますが最後にこう来るのです。

まあそもそも私の人生における「おおさか」としてはボンクラーズ1/3の方が明らかにウェイトが高いので、本気でどうでもいいと思っているのも事実ではある。

おそらく、世間においても「本気でどうでもいい」と思っている人がほとんどではないのかと思う。まあそうでしょう。

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ただし、「本気でどうでもいい」ですむのかどうか、私は懸念していると言っておきたいと思います。


たしかに、大阪だけの話で済むなら大したことではありません。勝手にやっておけばいいし、手続的中立性を重視しつつ、彼(ら)が勝手に転ぶのを待てばそれでよろしい。


私の懸念は、おそらくそれではすまないだろうということです。


橋下のアジテーションは実に単純です。テレビ番組で高視聴率をとるにはどうすればいいかを探り改編期ごとに番組を変えるごとく、メディアが釣れ、それと同時に有権者が釣れる、すなわち高視聴率が取れるものが当たるまで、話題を変え続ける。


これによって、都合の悪い話題はいつの間にか押し流される。下手な鉄砲も百打ちゃ当たる、いずれ大当たりを引く時が来るだろう。


それも大阪限定の話ならばたいして問題がありません。(それでも、原発再稼働では事態を無駄に混乱させた最大の元凶の一人が橋下なわけですが)


いずれ、彼は衆議院選挙に出るでしょう。当然、当選するでしょう。日本維新の会は一時の勢いは衰えたりと言えども数十の議席を取ると言われています。


毎日、メディアがあらゆる話題について彼のコメントを取ろうとするでしょう。コメンテーターのおめでたい一言とともに。橋下は政治家として無能(というよりかなり有害)なのは明らかなのに。そして行くきつくところまで行くんでしょう。


それでも法律家たちは言うに違いない。手続きは重要だと。基本的人権は公平に保障されねばならないと。

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日本は一度失敗しています。鳩山由紀夫という偉大な人物を総理に迎えたとき、法制度上、誰にも止めることはできなかったという経験をしています。


もしも橋下が日本の政治をこれ以上かきまわすとして、行きつくところまで行くとして、法律家の先生方はどうぞ橋下と心中していただきたい。そう思うわけです。


でも、私はイヤですよ。橋下と心中とか、まっぴらごめんです。

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歴史上、危ない人物が権力を握った場合、合法性を確認されつつ行われたということは、特に珍しいことではありません。


そして、後になって反省するんです。ケロッとした顔をして。

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橋下は、新潮・文春と朝日に対する対応とで、意図的に態度を切り分けています。


大屋先生は、新潮・文春のときは、
おおさか - おおやにき

橋下氏個人の周囲についても週刊誌等で相当の報道があったようであり、まあ真偽は知らないが、しかし家族が云々というのは本人が選べるものでもないことが多々あり、正直攻め手としての筋は良くない。逆境に打ち勝った私というアピールに使われてしまうかもしれない。

で済ませてしまう一方で、「アサヒ」に対しては御覧のとおりの罵倒ぶりであります。


この対応の違いがどういう影響を与えてるのか。


ネットでは、「週刊朝日は廃刊しろ」などという声も上がっています。それほど一般の対応も極端に出ているのが現実です。


法律家としての客観的な態度とそこで下される判断は構わない。それにまとわりつく主観的要素がどういう影響を与えるか。橋下は嫌いだと言いながら、「アサヒ」を罵倒するのはどういう意味になってしまうか。


これは本当にフェアと言えるのか。


客観性の中に主観性を混ぜ込むことの意味はなんなのか。もうちょっと考えたいと思います。