400年くらい前のスペインの話に「ドン・キホーテ」というものがある。村の郷士であるドン・キホーテは騎士道物語を読みすぎたあまり、自分が騎士だと思ったことが発端である。

ドン・キホーテの問題は、騎士道物語を読みすぎたことにあった。騎士道物語を読みすぎたあまり、現実認識がすべて歪んでしまった。その歪んだ現実認識を基に、ドン・キホーテは行動する。

現実認識が歪んでいるので、ドン・キホーテの行動は変だ。だから笑われる。

ただ、現実認識は歪んでいるかもしれないが、ドン・キホーテ自身はかなり理性的な人物であり、だから「変な人」という認識は持たれながらも、そして時に滑稽な振る舞いをしつつも、果断な決断をすることで好ましく見られたりもする。

だから、ドン・キホーテは、ただおかしい人物ではなく、読む者の心に永遠に生きる。死の床に就いたドン・キホーテに、サンチョ・パンサが、まだやることがあったんじゃないですかという時、そうだそうだと読むほうも一緒に泣けてくる。これがドン・キホーテだ。

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私は、ネットの言説を眺めていると、ドン・キホーテを思い出す。

Twitterが特にそうだが、ネットでは、自分にとって好ましいものをひたすら読めるようになっている。自分にとって好ましくない言説であっても、それは反対意見として、自分に取り入れるのではなく、反対意見に対する反対を自分の中に思い起こすことによって、むしろ自分の意見を強化する土台になっている。

つまり、ドン・キホーテが読みまくった騎士道物語のように、ネットでの言説が読まれてしまっている。

その結果、現実認識が歪む。これは政治的左右を問わない。右にしろ左にしろ、自分の見方を強化する方向にしか向かわないので、結果的にネットで読む言説は、ドン・キホーテの騎士道物語と同じ役割しかしない。

こうして、現実認識が歪んだ人間が大量に出来上がる。

スマートフォン時代の弊害は、一日中、あの小さい画面をじっと見てしまうことにある。自分で自分を洗脳することが容易にできるようになっている。

これは「ドン・キホーテ現象」とでも言ってやりたい。

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しかし、現代のドン・キホーテたちと、ラ・マンチャの村のドン・キホーテは、何が違うか。

ラ・マンチャドン・キホーテは現実認識は歪んでいたが、本人自身は好ましい人物だったので、滑稽ではあっても、結局はたいていの人から好かれていた。従者のサンチョ・パンサは、死んでもまだドン・キホーテに付き従っているくらいに、主人のことが大好きだ。

ところが、現代のドン・キホーテたちは、嫌われている。大いに嫌われている。ただ現実認識が歪んでいるだけだからだ。

これを、「ドン・キホーテ現象」と呼ぶのは、ドン・キホーテに対して失礼かもしれない。しかし、そうとでもいう他ない。