ブロガーHagex刺殺犯「集団リンチがそんなに楽しいか?」: ニュースの社会科学的な裏側
件の事件と全く関係ないところなんだが。

1.ネット・イナゴもSNSの華であること。専門外のことや、専門に近い事でもいちいち調べたり、よく考えたりしてコメントするほど皆さん暇ではない。ネット界隈が賑やかである以上、いい加減なコメントが生じるのは必然だ。人間は関係性の動物ではあるので、イナゴの群れのような行動に出るときもある。しかし、寂しいよりは良いものだ。

「専門外のことや、専門に近いことでもいちいち調べたり、よく考えたりしてコメントするほど皆さん暇ではない。ネット界隈が賑やかである以上、いい加減なコメントが生じるのは必然だ」とある。私も、そのいい加減なことを書き散らしている人間の一人だが、これが問題なのだろうと常々疑問に感じている。

もう少し正確に言えば、「いい加減なコメント」だという自覚が、読み手の側に、あるいは書き手の側に、あまりにも希薄なのではないかという疑問だ。それは、専門、あるいは専門領域に隣接したことについて語る場合でも同様で、そこで語られることが本当にそうなのか、読む側は常に疑問を持つような心構えが必要であることが非常に多い。

ところが、ごく一般的にはそうではないわけで、「いい加減なコメント」が安易に流布してしまう。それで本当にいいのだろうか。

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また後半の部分で「寂しいよりは良いものだ」とある。本当だろうか。

まず、ネットでの「関係性」は、現実の人間と接触するようなことがない場合(そのほうが大多数だと思うが)、ようは頭の中の世界でのことにとどまる。

しかし、人間は、具体的な個人や目の前のものと関係を結ぶのが本来であって、画面上の字の羅列で作られる「関係性」なるものは本当に「関係性」と言えるほどのものなのだろうか、あるいはそう言っていいようなものなのだろうか。

やはり、リアルの人間やリアルの物事と深く接触することが、人間にとって大事なのではないだろうか。人間はそういうふうにして生きるように出来ている。

二つ目。「寂しいよりは良い」という根拠が、案外不明だ。もちろん、経験論になってしまうわけだが、変な人間関係を結ぶよりは、寂しい方がよほどいいので、事実そういう場合が私の周りには多く、かつ人間関係をあえて切ってしまうほうがよい場合も少なくない。

我慢して「寂し」くない状態でいるよりも、「寂しい」状態のほうがましだ、ということが十分にありうる。

かねがね、「つながり」や「絆」という日本語に非常に警戒感を持っている私だけれども、あまり軽々に他人と関係性を取り結ぶことで、「寂しい」状態から抜けることに、どれほどの意味があるのか。まずそこから私は疑ってかかっている。

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上の引用記事の本論とは全く関係ないが、常々考えていることに刺激を与えてくれるような文章に触れたので、書いてみた次第。