政治家の責任と倫理の問題は難しいとかねがね思っている。

簡単に言えば、「法律違反じゃないから構わない」でどこまで通るのか、と。以前、野田佳彦が総理の時、国会で、18歳からたばこを吸い始めたとポロっと言ってしまったことがあるが、これなどは「法律違反」かもしれないが、別にどうということはない。

他方で、ムッソリーニ政権時代におこったマッテオッティ事件のようなことになるとそういうわけにはいかない。
ジャコモ・マッテオッティ - Wikipedia

1924年、統一社会党の大物だったジャコモ・マッテオッティが国会に行く途上、ムッソリーニに極めて近いファシストらに誘拐・殺害されたという事件で、当初から問題になったのはムッソリーニの直接的な指示があったのか、あるいは指示はないが配下の「忖度」によるものであるとして、その責任はどうなるのか、ということだった。

ムッソリーニが具体的直接的な殺害命令を出したのかどうかはよく分からないらしく、今後もそれが明確になることはないと思うが、仮に直接的に指示を出したわけではないが、配下の者が勝手な「忖度」をして(誘拐当日、マッテオッティは議会で政府の暗部を暴く演説をするつもりだったらしい)、マッテオッティを誘拐し、殺害したということであったとして、ムッソリーニに法律的な問題があるわけではないのかもしれないが、倫理的な問題は到底免れ得ない。

事実、ムッソリーニにとって、1924年のマッテオッティ事件が最大のピンチであり、野党は国会をボイコットして抵抗、それまでファシズムに対してなんとなく黙認の形をとったり、反対の声を上げにくい空気で黙っていた世論も離反し、反発の声を上げ始める、という状態になった。

最終的には、ムッソリーニは1925年1月3日、議会で有名な演説をし、倫理的責任は認めるものの、開き直ってしまい、ファシズム政権の土台を逆に盤石にする、という経過をたどる。

ことほど左様に、法律違反でないから構わないでは済まない問題が、とりわけ政治の場合、存在する。

もちろん、日本の政治にも同種の問題はあるわけで、これをどう考えたらいいのだろうか。

例によって答えは私には出せないわけで、個別に考えていくしかないと思うが、少なくとも「法律違反じゃないから構わない」で済まないことがある、ということだけは確かだと私は思う。