私はたまたまイタリアに縁があって、イタリアが好きになった。イタリアは20ある州ごとに違うというよりも、街ごとに違うようなところがあって、「イタリア人」という括りで一つの性格を言えるのかどうかすらよく分からない。

それでも、たとえば、日本人は計画を完璧にたててから実行に移すが、イタリア人は大雑把な工程だけで後はその場その場で臨機応変に対応して最後は帳尻を合わしてしまう、というような性格の違いはよく言われる。だから、日本人がイタリア人の仕事の仕方を見ると、いい加減に見えたり、あるいはヒヤヒヤしたりするそうだ。

かように、国ごとに、あるいは街ごとに、ある種の「傾向」「性格」があり、その単位内で共有されている論理がある。イタリア人はこう考えるが、日本人だとこうなる、と言える場面はその一つの典型といえる。

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ただ、これを推し進めていくと、あなたはあなた、私は私という、独善に陥る。私はあなたと違うのだから何が悪いのか、と。

私は自分のことを我がままなエゴイストだと思っているので、「あなたはあなた、私は私」が大好きなのだが、しかしそれだけでは済まないような問題もある。

たとえば、イタリアでも日本でも、現代では人殺しはよくないことになっている。しかし、ちょっと前まで日本では仇討ちがあったのだから、場合によっては人殺しはむしろ積極的に是認されていた。同じようにヨーロッパには「決闘」があったことを思い出す。

極端な話、人殺しを是認する国と人殺しを絶対的に認めない国があるとして、この二つの国は「あなたはあなた、私は私」で共存していっていいんだろうか。あるいはこの二つの国の人々の付き合い方はどうなるのだろうか。

人殺し云々は極端な例だから置いておくとしても、「あなたはあなた、私は私」という態度をどこまで維持して、どこから先は「あなたも私も同じ」と言うべきなのだろうか。

難しい問題で、軽々に答えは出せない。場合に応じて考えるより今の私にはできない。

ただ、どこかの時点で「あなたはあなた、私は私」と言えない、言ってはいけない線があり、その線も時代や場合によって動きそうだ、とは思う。

その線をどこに引くべきかという問題、そしてそもそも引くべき線があるということ、そのことをしばしば考える。