私にとって一番縁の深い分野は音楽だが、音楽はただ楽譜を音にすればよいというものではない。楽譜を音にするだけなら、たぶんとっくの昔に、機械にやらせたほうが完璧な「音楽」ができるようになっている。

ところが、音楽はそういうものではない。私が楽譜を読んで、それがどういう音かを想像して音にする過程は、計算機には代替できない。あるいは音楽を聴くときに、計算機で代替できるようなことを聴きたいわけではない。

念のために書くと、私は「音楽は人の心を伝える」とか「音楽は国境を越える」といった、気楽なことを言いたいのではない。音そのものは、単なる空気の振動でしかない。そこにロマンティックな思い入れを持ち込むことはできない。

私が言いたいのはそうではない。その計算機に置き換えられない部分、そこが人間の人間たるゆえんのものなんだろう、音楽に期待しているのはそこだろう。

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吉川幸次郎に「読書の学」という本がある。

読書の学 (ちくま学芸文庫)

読書の学 (ちくま学芸文庫)

吉川は、本をただ読むのではなくて、その後ろにある人を読もうとしている、ような読後感を持った。ただ言葉をよく知っているだけではなく、その文章を書いた人を読まないと注釈ができないうえ、注釈そのものにも、注をつけた人の人間が出る。その姿勢、その感覚が、音楽と楽譜に向かう人間のそれと、たぶん同じだ。

もちろん、本を読むということには、ただ知識を得て勉強する、情報を獲得するという、よりドライな働きもあり、それはそれで必要な機能だ。ただ、本を読むことはそれだけではない。

本の後ろにある人間を読むこと、そこまで行って初めて本を読むと言えるのだろうし、私もそうありたいものだとは思うものの、それは学者が命がけやることであって、私はやはり、「饗宴」の宴会会場に向かう道をふらふら歩きまわりながら物乞いをするくらいが限界で、性に合っている。