本を読むのはいいことだ、あるいは読むべきだというのは本当なのかどうか、常々疑問に思わないでもない。

いくら本を読んだところで、たいていの場合、そこに書かれていることはいわば「また聞き」「また聞きのまた聞き」であって、自分で間違いなくそのものを見た、確認した、というわけではない。あるいは、これこれこう書かれてあるものはつまりこういうことだと読んだ本人が言えるわけではなくて、単にそういう読み方ができると本を書いた人から教えてもらうだけだ。

だから、プロの学者が、間違いなくこうだ、あるいはこれはこういう意味だと言うために、人生をかける、命をかける意味が出てくるわけだ。

そこまでやって初めて、何かを知ると言えるのであって、そうでなければ「俺はUFOを見た」と本に書いてあるからそれを信じるというのと、たいして違いはない。

もちろん、「また聞き」や「また聞きのまた聞き」であっても、読んでいる本人が面白く感じて満足すれば楽しみとしてそれでいいのだけれども、それで何事かを「知った」と合点するのは、しばしば早とちり・勘違いだ。

この勘違いがあるから、本を読むことが本当にそんなにいいことなのかどうか、疑わしい。それに、たくさん本を読んで「賢い」はずの人が、いろいろな面でおかしいことなんて、それこそネットに例がむやみに見られるし、私もブログにとりあげる。

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ダンテ・アリギエリの「饗宴」に、偉い先生たちが宴会をやって興じているが、自分なんてせいぜいその宴会のパンくずひろいをしているにすぎない、みたいなくだりがあったように思う。

私は、ダンテのような人でもこんなことを言うのだといたく感動して、それ以来ダンテ・アリギエリが好きになった。

ダンテがパンくずひろいなら、私なんぞせいぜい宴会会場に通じる道で嬉しがって物乞いをやっているようなものかもしれないが、それでもいいように言いすぎだと思う。

ただ、私にはそういうふうにしかできないので、宴会に参加できる人たちを素直に尊敬する。

この気持ちは忘れたくないし、「饗宴」に参加する資格のある人とない人との区別はきちんとつけないといけない。それを忘れたらダメだろう。