イタリア・ファシズム史の大家であるレンツォ・デ・フェリーチェは、もともと共産党員で活動にも熱心だったそうだが、若いころにそれもやめてしまう。その代わりに、歴史家としての研究活動に邁進する。その際に、イデオロギーのバイアスはおいておいて、まずなによりも広範な史料の渉猟と歴史的事実の再構築に専念する。それを徹底した後にようやくファシズムの解釈の問題に着手できるはずだ、という考えだった。

したがって、イタリア共産党の見解にそぐわない話も出てくることとなった。1960年代にきわめて大部のムッソリーニ伝の初巻が出始めるが、その頃からすでに議論を巻き起こすこととなる。その際に「歴史修正主義」だという声が左翼側から上がったのは、当然と言えるかもしれない。

歴史修正主義」というと、日本語で書くと南京大虐殺はなかったとか、ホロコーストはなかったという話と同類に思えてしまうが、そういうわけでは全くないのは、デ・フェリーチェの研究手法の徹底ぶりだけではない。

そもそもデ・フェリーチェがファシズム史に手を付けた動機の一つが、ユダヤ人差別問題にある。第二次世界大戦のころの反ユダヤ主義が再び起こることを危惧し、事実そのような芽を見出したことが、動機となっている。

かつ、当初よりファシズム体制に対する批判的立場を崩しておらず、「自分ほどムッソリーニを根拠ある議論で徹底的に批判した人間はいない」と言っている。

だから、左翼は「歴史修正主義」と言って批判するけれども、その言葉からイメージされるものとは異なる。「歴史というのは常に修正されるものだ」と言い返し、また本人も根拠のある批判にはオープンであった。

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イタリアのファシズム史研究で、英語圏の学会にほとんど唯一認められているのがエミリオ・ジェンティーレらしいが、ジェンティーレはそのデ・フェリーチェの弟子の一人であって、その著書で師デ・フェリーチェの思い出を愛情を込めて回顧している。

デ・フェリーチェは、若い学究たちを研究室に集めてワイワイとやっていたらしいが、大事なのは政治的傾向よりも、学問に対する真面目な態度だった。

ジェンティーレは、初期の著書で重厚な「ファシストイデオロギーの起源」Le origini dell'ideologia fascista を デ・フェリーチェに見せて意見を求めると、もちろんあれこれと批判や意見が付くのだが、自分の意見を押し付けるということはなかったそうだ。その自由な態度は、学部生に対しても変わらなかった。

デ・フェリーチェは学部の授業では決まっていくつかの歴史家の本を学生たちに読ませるのが常であったが、その中にマルク・ブロックの「奇妙な敗北」があった。

ドイツ・ナチズムに対するフランスの敗戦について、ブロックは政治家の知性的怠慢や知識人の無責任を指摘しているが、デ・フェリーチェは学者としての責任感が人一倍旺盛で、まずその点を学生たちには理解させたかったらしい。反ユダヤ主義の復活に黙っていられなかったデ・フェリーチェの根本と言っていい。

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さて日本の知識人、大学の先生たちにそういった反省は、というのはもう野暮だからやめにしたい。