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ニセ科学批判とネトウヨが結び付けられるようになったことについて
なんだか、投稿しても途中で切れてしまうので、追記部分だけをトラックバ..
私はこのブログでは最初、ニセ科学批判を取り上げた。というのも、ネット右翼や政治ネタに飽きてしまい、政治絡みの話は避けたかったということがあり、ネット右翼に近そうな話として、ニセ科学批判に目を付けたわけだ。これがのちにネット上の徒党の問題として「ネット○○派」問題となり、その過程でリフレ派をやり玉にあげることになった。そうしているうちに政治ネタに回帰していっているのが現在だ。
つまりニセ科学批判というのは、ネット上の徒党、私が言うところの「ネット〇〇派」の現れの一つであって、かつ政治ネタと異なり基本的には人畜無害で地味な素材であるため、扱いやすかった。
その当時としては、ネット右翼とニセ科学批判は似ている、というところが眼目だったのだが、もちろん本質的にニセ科学批判とネット右翼が同じだとは思わないし、あるいは支持者がかぶるということを言いたかったのではなく、ネット上でのふるまい方がネット右翼とニセ科学批判は似ているということが言いたかったのだった。
上の増田で扱われているのは、ネット右翼とニセ科学批判のふるまい方の近似にとどまらないので、改めていろいろ書きたくなった次第だ。ニセ科学批判とネット右翼・保守派の融合という展開については、書いたことがなかったように思う。
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まず、増田の筆者は、ニセ科学批判、あるいはより広く理系クラスタがリフレに近づいた点について、「なぜこういう動きが起きたかは分からない」と言っているが、これに対しては、もともとニセ科学批判とリフレは黒木掲示板で極めて近しい関係だったということは指摘しておくべきだろう。
リフレ派とニセ科学批判つながり - 今日の雑談
ネット○○派 part231 黒木掲示板・シノドス - 今日の雑談
このつながりが、シノドスでもそのまま変わらず、現在まで続いている。(ちなみにだが、増田の追記記事で厳しい批判がされている林智裕もシノドスと関係がある。また、シノドスは株式会社であることを改めて注記しておく)
リフレ派とニセ科学批判はよく似ていて、どちらも大学の先生や「知的」なものに憧れを持つ人たちが支持していて、そういう人たちが満足するようになっている。もともとの発祥は外国にあり、それを輸入して紹介している。ついでに言うなら、日本向けに加工して輸入しているので、いろいろおかしいことになっているように見える。政治的には本来はどちらかというと左派に近いはずだが、表向きは一つの問題について支持するなら左右は問わないことになっている。さらに、どちらも保守化したところまで似ているかもしれない。とにかく、ニセ科学批判がリフレに近づいたのは、何も不思議なことではない、むしろ当然の成り行きだ。
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増田の記事はニセ科学批判の視点から書かれているが、それに加えてより大きく、つまりネット右翼側から、あるいは保守派の扇動の側から見る必要もあるのではないかと思う。というのも、ニセ科学批判よりも、保守派のほうがはるかに強力だからだ。
まず保守派とリフレ派についてだが、リフレ派はリフレ政策を現実に実行させるために、安倍さんとその周囲の保守派に接近した。安倍さんは首相になり、日本銀行に質的・量的緩和政策をさせた。もちろん細かい経緯については後年の歴史家の研究にゆだねなければならないところだけれども、とにかくここでリフレ派は政治的に一旦は勝利したと言っていい。リベラル・左派であるように思われている稲葉振一郎が、リフレ派と保守派の結びつきについて「切れば血の出るリアルポリティクス」と言ったのは、それ自体はもっともなことではあった。(保守派がリフレを採用した理由は単純に錬金術、最初からインサイダー目的だったのではないかと私は疑っているが、根拠がないので単なる妄想でしかない。後年の研究を俟つ)
ここで保守派とリフレ派がつながったわけだが、311の後、放射能デマなどを批判したいニセ科学批判サイドと、左翼を叩きたい保守派の利害がたまたま一致したというのは、増田の記事にある通りだろう。菊池誠のような人が保守派に流れるような形になってしまい(さすが週刊金曜日を創刊準備号から購読していたのに、「買ってはいけない」に呆れて購読をやめた人だけある)、増田の指摘するような「フィードバック」効果などなどの要因が重なって、結果的にニセ科学批判が保守派に取り込まれる格好になった。あるいは、ニセ科学批判の一部が、保守派と、保守派と結託したリフレ派に引きずられる形になった。
ここに、保守派・リフレ派・ニセ科学批判というトライアングルが成立していて、あとは保守派がどんどん扇動するだけ、という構図が出来た。
つまり、保守派・ネット右翼がニセ科学批判を援用し、かつ菊池誠のようなニセ科学批判の推進者の一人がおかしくなってしまっている結果、「ニセ科学批判は(ネット)右翼」という印象が強く残ってしまうということなのだろう。
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上記のトライアングルに加え、そもそもニセ科学批判にあった問題が、右傾化によって顕在化したように思われているだけではないかという点も加えておきたい。
ニセ科学批判・疑似科学批判というのは、本来は不合理を否定して合理性を追求するところに意味があるので、歴史修正主義批判、宗教批判など、つまり政治的には左派に近い。増田に名前が出てきた左巻健男はもちろんのこと、いまでこそああなっている菊池誠ももとはといえば立派な左翼だ。
しかし、日本のネットのニセ科学批判は、ニセ科学を批判するという一点を支持すれば政治的傾向は問わない建前をとったので、政治的に非常にあいまいなことに加え、そもそも批判対象の選択が極めて恣意的だったことにも反省がされず、一貫性は閑却される傾向が極めて強かった。この点については、このブログでしつこく指摘したところであり、その典型が漢方と鍼灸の扱いだ。
また、増田の記事の「水増し」部分の3類型のうちの「(2)人を叩くのが好きな層」「(3)理系としての選民思想の持主」については、ネット右翼のふるまいと相通じ、まさに私が批判してきたところでもあったが、ニセ科学批判サイドに聞く耳があったのかどうか。
もっとも、増田の筆者自身は公平な立場をとろうという人で、私のニセ科学批判に対する批判とは一応は関係がないわけだが、よく考えて見れば、本来ならば、この筆者のような立場を、例えば菊池誠のような中心的な立ち位置の人が明確にして、またそれに沿った言動をするべきだった。ところが、建て前はともかく、実際にはそういうことにはまずならない。むしろ、真面目にやろうとしているこの筆者のような人の方がおかしいことになってしまう。
例えば、「Aを批判しているのにBを批判しないのはなぜか」という話が出ると、「リソースの限界」論で対処されて、それで済んだことにされる。それ以上、何かいうと「周回遅れ」という話になって、これにその他大勢の人たちが同調して、バカにして終わる。
つまり、増田で指摘されているような問題は、ニセ科学批判の右傾化の以前からあった。ただ、詭弁でいい加減に対処された問題が、右傾化のためにより明確になってしまっているにすぎない。
見方を変えれば、保守派に取り込まれ「汚染」される素地は、ニセ科学批判には最初からあったのだ、ということになる。
だから、ニセ科学批判が、ホメオパシー批判と同程度に、安倍さんや安倍さんの奥さんのオカルト趣味やニセ科学への近さを叩きまくる様子はないのも、「そりゃそうだろう、もともとニセ科学批判なんてそういう勝手なものなんだから」という話にしかならない。漢方や鍼灸を批判するどころか擁護するのに、なんで「金融緩和」をやってくれている現首相夫婦のことを批判できるのか。
いや、それはニセ科学批判を取り込んだ右翼が、という部分もあるのだろうが、ニセ科学批判とネット右翼には共通性があることは否定できず、また自身の問題に無反省なニセ科学批判が右傾化しておかしくなる土壌は十分あったのであって、言い訳にならない。
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こうして見てくると、増田の筆者が指摘する「水増し」部分よりも、むしろニセ科学批判の「発信者」、中心的な立ち位置の人たちに大きな問題があったのではないかと思われてくる。増田ではむしろ「水増し」部分の問題を強調したいようにも読めるが、菊池誠・伊藤剛・林智裕といった名前を挙げて厳しい批判をしているところを見ると、「発信者」の問題についても注意が向けられているのだろう。
ここで私は、ニセ科学批判に限らず、様々な分野で中心的な立ち位置にいるような人たち、大きく言えば、エリートの責任というものを問いたいと思う。
明らかに不合理な言説を信じたり、ポピュリズムの扇動にのるのは、経済弱者で低学歴でいかにもバカそうな人間だけではない。むしろ、高学歴かつ社会的にもしっかりしていると目されている人たちが、あるいは自覚なく扇動に乗ってしまい、あるいは意図的に扇動することで自分の利益を確保しようとする。
そういうことで本当にいいんだろうか。
自覚なく扇動に乗ってしまうということならば、それは「いかにもバカそうな人間」とやっていることが同じで、深い反省が必要だ。しかし、経済的利益や社会的地位などのために意図的に扇動して自分の利益にしようとするのは論外ではないか。
エリートの責任というものがあるだろう。ノブレス・オブリージのようなものが必要ではないのか。
ニセ科学批判程度の話であれば、そこまで話を広げることはないのだけれども、どうも他の分野にも同じような状況があるように思われる。
たとえば、増田の追記記事にある「アリバイ的に左派的な口ぶりをするだけなら、ダダでも出来るんだよね」というフレーズを読んで、即座にリフレ派の面々の顔が浮かんだ。リフレ派は権力とがっちり結びついてしまっており、悪質さにおいてニセ科学批判とは比べ物にならないのだが、やはり同じ問題がある。善意に考えれば、菊池誠はこの種の「アリバイ的に左派的な」レトリックに引っかかってしまった面もあるのだろう。リフレ派はこのレトリックを意図して語っている。
しかし、「アリバイ的に左派的な口ぶりをする」人というのは、何もリフレ派に限ったことではなく、身の回りにあふれかえっていると言ってよい。
ネット上の、ここで取り上げたような話だけではなく、リアルでも同じ風景はあるのであって、増田の筆者は「ことは最初、もとの文章を推敲してた時に考えていた以上に、深刻なのかもしれない」と言って結んでいるが、様々な分野での(特にエリートの)無責任の蔓延という意味で、まさに深刻な状況なのだろうと私は思っている。
この批判は当然、私自身にも向けられねばならない。私はどういう環境にあるとしても、ああいう人たちにはなりたくないと思う。そういう信念で生きていたいし、現在及ばぬところが多々あるとしてもリアルでそのようにしているつもりだ。大袈裟かもしれないが、余りにも不真面目な人が多すぎる、そういう問題だと私は思う。