この増田の存在を知らなくて、先日読んだ。

ニセ科学批判とネトウヨが結び付けられるようになったことについて
なんだか、投稿しても途中で切れてしまうので、追記部分だけをトラックバ..

このブログでは、ニセ科学批判に対する疑問、またニセ科学批判とネット上の徒党の問題を当初より扱ってきたので、熟読玩味すべき論考だと思った。

増田の筆者はニセ科学批判を支持している、あるいは支持していた人だ。普段観察している twitter を根拠に、「ニセ科学批判とネトウヨは本来、つながらない」はずだが、なぜそのように見られてしまうのか、について論じている。ここにざっとまとめてみよう。

まず、この筆者はニセ科学批判と右翼の親和性という点について、東日本大震災が転換点になったとする。放射能デマを批判するニセ科学批判が右翼と手を結んだ。あの左巻健男が石井孝明をRTしたことがあるほどだ(私は知らなかった)。

ただし、右翼の側が利用しようとしたという面もあり、その点については整理が必要で、ニセ科学批判に右翼レッテルを貼る左翼もそこは再検討が必要だとする。

次に、ニセ科学批判の内部を腑分けしていく。まず「積極的に資料をあたったり文献をあたって、情報を発信」する「最初の発信者」がいる。さらに、それをネット上で「再発信する人」がいる。この人たちのことを「水増しされた部分」と言っているが、ニセ科学批判とネット右翼が結び付けられるのはこの部分に問題があるからではないかという。

そのうえで、この「水増しされた部分」「再発信する人」を分類する。

(1)善意を悪用して、自分のイデオロギーをのっける層
「文字通りの『ウヨ』」で、具体的には石井孝明や池田信夫

これに関連した「亜種」として、

   (1A)ウヨというより「左派が憎い」 佐々木俊尚 伊藤剛唐沢俊一 

   (1B)膨らんだ層を当て込んだ「御用文化人」 いちえふの作者

(2)人を叩くのが好きな層
「言っちゃあ何だが、科学は正義である。しかも、ある程度実証が積み重なれば、相対化しようがない正義だ。」(昔、これに類することを書いたことがあるが、随分批判されたような記憶がある)

(3)理系としての選民思想の持ち主
「理系に対する嘲笑や偏見」に鬱憤をため込んだ人たちが、その発散の一環として、放射能デマ批判、ニセ科学批判に群がったとする。

これは私の見方だけれども、いずれも人によって明確に分類できるものではなくて、それぞれに重なり合う部分もあるのではないかと思う。特に(2)と(3)は重なる部分が大きそうである。つまり、鬱憤の発散のために「正義としての科学」を振り回す。

さて、この筆者は、ニセ科学批判とネット右翼の関連としては(1)、あるいはせいぜい(1A)に限られ、(2)(3)は本来ネット右翼と関係がないはずだ、しかし(2)(3)は悪印象の原因になっているのではないか、とする。つまり、事態の悪化を促進する要因としての(2)(3)、ということだろう。

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ここで、話が変わる。

「自分たちはつまらない理由でネトウヨ扱いされた、だからネトウヨを名乗ってトンチキなことを言い募ってやる!と言わんばかりの連中」というのがおり、菊池誠がおかしくなったことのきっかけはここにあるのではないかと推測している。

さらに話は変わり、「フィードバック」の問題を取り上げている。

ニセ科学批判の言説に賛同する右翼のtweetをRTするなどした場合、その言説そのものだけではなく、そのtweetを書いた人(つまり、右翼)に対する賛同も自ずから含まれている、かのように読まれてしまう。RTする当人にその認識があるかどうかは関係なく、読み手側がそう読んでしまうと、とくに元のtweetを書いた人が「札付き」だった場合に、読み手が引いてしまい、離れてしまう。

そういうことが繰り返されていくと、後に残る人は、「札付き」込みで賛同する人だけになるうえ、知らないうちにその「札付き」の影響を受けてしまい、「クラスタ自体が、濃縮されてだんだん汚染されて」しまう。

ここに、「ニセ科学批判そのものを凶器として振り回す層というのが出来た結果、その印象がネットイナゴ、あるいはネトウヨと非常に近いもの」となってしまい、「もともと発信元として活動していたような人は、自分が左派であろうと発信を続ける」が、「そこまで中心にいない人は、距離を置くか、あるいはニセ科学批判派の語り口に疑問を持つようになる。」

菊池誠がおかしくなったのはこの「フィードバック」の問題にも一因があり、2012年か2013年くらいまではそこまで変ではなかった、とする。

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話がややこしくなるのは、歴史修正主義批判・反知性主義批判等をやる人たちの中には、「原発や巨大科学のようなものには批判的で、甚だしい場合は放射能デマに一定の親和性がある人もいたりする」からだ。

また他方で理系の人たちは、人文科学になじみの薄い人が少なくないので、「嬉々としてトンデモさんを引っ張ってきて何かつぶやいている、という光景」が現出してしまう。

「『Aを批判しているのにBを批判しないのはなぜか』はほっといてくれというのは分からないでもない」が「党派性を後ろに秘めてみて見ぬふりをする場合もあ」り「一概には言いにくい論点」だ。

こういうことが続いていくと、本来、不合理批判という点で一致しているはずの人たちの間で、溝が深まってしまう。

こうして、「ニセ科学批判クラスタは『身内』に甘い、というような見方」も出てくる。

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ここに経済問題が絡む。これは私は知らなかったが、「mika_berry氏というツイッタラーがリフレとニセ科学批判とネトウヨのつながりについて言い始めてそれにニセ科学批判派やネトウヨの定義が気になるタイプが反発して少し炎上のようになった」んだそうである。

ただ、確かにニセ科学批判が人によって程度はともあれリフレに近づいたという印象はこの筆者は持っているが、「なぜこういう動きが起きたかは分からない。」しかも、リフレに近づいた人の少なからぬ人たちが、「決定的にウヨクに近づいていく」。

なぜウヨクに近づいて行ったのかは、やはりこれもよく分からないという。なぜならば、「アベノミクスなるものがあったからといって、他の論点がいっぱいあるのだから、ウヨに近づく理由にはならない」からだ。「むしろ経済で結果を継続して出せるように安定させるためにこそ、おかしな動きは徹底的に批判すべき、と思う」という。しかし実際にはそうならない人たちというのがいて、これが「『政権を応援しマスコミを憎み野党のアラ探しをする』クラスタ」となる。

結論としては、ニセ科学批判は党派性から距離を置いたつもりの人が多い。しかし自分たちでそう思っていることが何事かを担保するわけではない。このことは、ニセ科学批判には左派の人が多いと指摘することと矛盾しない。

この10年のネットは、ノンポリが政治的な層、特にウヨに振り回される歴史だったとしたうえで、たしかにニセ科学批判=ネトウヨという括りは「雑」だが、「それを一笑に付せる無邪気さは、ちょっと俺には持てない」として締めくくっている。

ページを改めて書かれた追記の部分については特に次の部分を引用しておく。

「この論法好きじゃないのだが、伊藤氏にしろ林氏にしろ、自分がゴリゴリの党派性を韜晦したつもりで普段「イデオロギーフリーなニセ科学批判」をしてるからこそのこういう反発じゃないのかな、とか言ってみたくなるんですがどうなんですか。アリバイ的に左派的な口ぶりをするだけなら、ダダでも出来るんだよね。」

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さて、ここまで、上の二つの記事について、ざっくりまとめてみた。次に、私なりの考えを書くことにしたい。