昨日の話の続きだが、氏家齊一郎は、原爆を落とした米国は悪い、満州に攻め込んだソ連も悪い、しかし日本は、という話に持って行っている。つまり、自分自身に対する批判の意識があって、そのうえで原爆投下や日ソ中立条約の破棄からの満州侵攻を責める。

しかし、今はどうだろうか。

自分自身に対する批判の意識、日本の戦争責任については目をつぶりながら、原爆投下や都市爆撃などなどの責任を問うているようにしか見えない。こうすることで、「悪いのは自分たちだけではない」という立場に身を置くことができるからだ。

私は、こういう今の日本人が嫌いだ。というよりも、不潔だと感じる。たまたま国籍が同じだというだけで、この不潔な生物どもと私を一緒にしてもらいたくないとすら思う。

というのも、この不潔な生物どもは、戦争に負けてすべてを失い、西側陣営につきながら、戦後秩序のなかで生きてきたことを忘れているからだ。その戦後秩序のなかでは、「悪いのは自分たちだけではない」と主張することは許されない。にもかかわらず、表向きは殊勝な顔をしながら、金儲けだけはちゃっかりやり、衰えたりとはいえ世界の経済大国として大きな顔をしている。

いまさら「悪いのは自分たちだけではない」と思いたいなら、戦後に稼いだ金をすべて投げ出すか、もう一度戦争をしてアメリカに勝ってからにするべきではないか。

もちろん、氏家の世代が、もしも体制内改革を目指すというのであれば、戦争責任の問題についてもっと明確なものを打ち立てておくべきであったと思うが、しかし自分自身に対する批判の意識があるだけ、氏家とその世代のほうがまだましだ。一体、どうしてこんなことになってしまったのか。

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この時期になると決まって、「戦争で死んだ人たちのおかげで、今の日本がある」と言いたがる人たちが出てくる。と同時にそれに対する批判もあるようで、それは大変にいいことではある。

もちろん、この種の言説がいつからどういう風に受容されてきたかについて検証する必要はあるが、あえて擁護するとすれば私は次のように思う。

「戦争で、戦地で死んだ人たちのおかげで」と言いたがったのは、生き残った人々が罪悪感をどこかで感じていたからだ。

かつて、戦争を経験した世代は、近所のお兄さんやおじさんが戦地に行ったまま帰って来なかったことを、現実に知っている。さっきまで元気だった人が、空襲や機銃掃射で肉塊にされたことを知っている。そうやって死んだ人たちがいるのに、なぜか自分は生きてしまっている。

その、なぜか自分が生きてしまっていることへの罪悪感を抱えていながら、戦争が終わってからも、なおも生き続けていなければいけないつらさがあった。

そのつらさを和らげるには、「戦争で死んだ人たちのおかげで、今の日本がある」というふうに考えたくなるのも無理な話ではない。そう考えることで、自分を必死で慰めて生きていくしかなかった人がいても、理解できない話ではない。

これは、悲しい話だ。

それに引き換え、今はどうか。

戦争で生き残ってしまったことの罪悪感なぞ微塵も感じないまま、「戦争で死んだ人たちのおかげで、今の日本がある」という言説だけ生き残り、自分に甘い顔をしている。

ここでも、自分を責める、という視線が皆無だ。自分を責めないで済むための方便を考えているにすぎない。

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たしかに、原爆は悪だろう、ソ連は許せないだろう、都市爆撃は責められるべきだろう。

しかし、それは、戦争に負けた日本人が自分自身に対して戦争責任を追及したのちに言うことだ。

だから私はあえて言いたいのである。

原爆が悪だなんてとんでもない。原爆のおかげで、ようやく日本は無条件降伏を受諾する形がついた。その結果の占領軍のおかげで、日本国憲法が成立し、経済的に繫栄した今の日本がある。

もしも原爆がなければ、連合軍が上陸して本土で戦闘があった。女性には自決用のカミソリを配布することを検討したという愚劣な日本政府はそれでもまだ戦争をやめることができず、人命の損失は続き、最終的には日本は分割統治され、経済大国などとは程遠い位置に置かれただろう。

それもこれも、原爆のおかげ、原爆様様だ。

なにが、核のない世界を、だ。カマトトぶるんじゃない。こんな不潔な生物どもが、人間のツラをたまたましているというだけで自分たちは人間だと錯覚している、傲慢な生物どもが何を言っているか。

私はそう思う。