私は何かというとヒットラー全体主義ファシズムだと言い出す左翼にうんざりしているほうで、軽々しくそういう例を持ち出すべきではないと思っている。安倍晋三を見てごらん、ヒットラームッソリーニスターリンと並べるのは彼らに対して失礼にもほどがあるだろう、と。

ナチスドイツに詳しい人が、米国のドナルド・トランプヒットラーの登場になぞらえ始めたときには、私はナチスドイツのことはよく知らないが、それでもさすがにそりゃあちょっとと思わざるを得なかった。

ただ、当時の歴史について勉強していると、触発される、啓発される部分というものは確かにあって、興味は尽きない。

たとえば、イタリアのファシズムが成立した背景には第一次大戦の経験があり、第一次大戦があったからファシズムが成立したと言われるほど密接に連関している。

簡単に言えば、塹壕で戦った者同士の経験や気分がファシズムを成立させている。苦しい塹壕戦で泥水にまみれ、戦友の死に直面し、また自らの死におびえる日々を暮らすということが、兵士たちにとってどういうものだったかは、平和の時代に生きる我々の想像を絶するものがあった。

その彼らが戦地から帰ってきたとき、彼らに対する当初の熱狂や英雄扱いがいつまでも続くわけではなかった。とくに身体に障害を負ってしまっている場合は、それは惨めなものだった。国家のために尽くしたのに、命を投げ出したのに、報われない。この悔しさがエネルギーとなってファシズムが動き出す。

ところで日本はどうだったかというと、第一次大戦に参加したものの、戦場はヨーロッパではなかったので、戦争体験としてそれほど深刻なものではなかったように見える。

イタリアにとっての、あるいはヨーロッパにとっての第一次大戦が、日本にとっての第二次大戦、という類比をしてみたくなる。

・・・

ヨーロッパでは第一次大戦ファシズム全体主義を生んで、そこからさらに悲惨な第二次大戦へとつながったことへの反省がある一方、日本では、そういう悲惨な経験を1回しかやっていないので、反省が足りない。

反省が足りないために、日本に漂う軽い全体主義の空気に敏感でない、全体主義に対する警戒心が足りないのではないかという場面に頻繁に出会う。たとえば小さいところでは学校の運動会で行われる全体行動や組体操の類、「みんな一緒に」が美徳になっているところ、あるいはよく見受けられる労働問題の根っこ。大きく言えば、戦争の話ではいつまでも抜けない被害者ヅラ。

いずれも、「日本人の特徴」やそういったものに由来しているわけではなくて、戦後の気分や心性がそういうものを生んで無反省に現在に至っているようにしか見えない。

無根拠かつ乱暴に印象論を言えば、イタリアでは第一次大戦ファシズムを生んで、20年がかりで盛大にこけて国家をつぶしかかった。日本では、イタリアの第一次大戦に相当する第二次大戦が、日本における戦後のファシズムを生んだがそれがつぶれることもつぶされることもなく(一応は日本国憲法が歯止めにはなったのだろう)、経済的に成功してしまったため、ファシズムの心性は消えるチャンスがなかった。

日本の近代史的には戦前が「ファシズム」で敗戦とともに変化するということになるんだろうが、実は戦後のほうがはるかにファシズムっぽい面が生きてしまっているのではないだろうか。

日本の左派がやれファシズム全体主義だというのは愚劣だが、右派に対しては「じゃあ、もっぺん戦争してアメリカに勝ってごらんよ、話はそれからだ」と言いたくなることがたびたびあるのも、こういうことが背景にあるのではないか。