文化相対主義と「基本的人権の尊重」の正義

私は、たばこについては、屋内は禁煙にするべきだと思うが、屋外については別にどうでもいいじゃないかと思う。そこまで目の敵にしても、科学的根拠云々ではおそらく議論が維持できない。そこまで健康被害を心配したいなら、車に乗らないこと、車を利用しないことが先決ではないか。

それはともかく、私は昔、ネットの炎上に参加したり、あるいは煽ったり、あるいは炎上されたりして、いろいろ思うことがあった。それで、ネット上の徒党や、「これが正しいに決まってるだろ」というような議論には距離を置いてきたつもりだし、批判もしてきた。リフレ派批判シリーズは154まで増えたし、ネット〇〇派シリーズに至っては444まで書いた。

で、確かに正義で盛り上がってしまうのは非常な問題だと思うし、そこで生じる党派性や徒党にもうんざりなんだが、そのうえで、あるいはそれとはやや違う別次元の問題として、

ネットを眺めていると、文化相対主義でなんでも正当化できるとひょっとしたら思われているんじゃないだろうかという疑問が消えないでいる。そういうふうに感じることが増えたんじゃないか。

外国のことを持ち出す出羽守はくそくらえ ここは日本だ 日本には日本の文化があって事情があるんだ

というパターンである。

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これに対する批判はネットでも広くあるところだけれども、私も思うところはある。とくに基本的人権との絡みだ。

一番わかりやすい例は、「幼女の女性器を切除する慣習についてどうするか」だ。基本的人権から言うと、こんなことは断じてあってはならないのですぐにやめさせるべきだが、文化相対主義の立場に立つと「自分たちのことに口を出すな」ということになる。

これは極端な例だから分かりやすいけれども、日本でも同じようなことはある。問題は多方面にわたっていて、女性問題、労働問題、戦争犯罪問題などなど、ここでは書ききれない。

しかし一つ言えるのは、ことほど左様に基本的人権は「普遍的」であって、固有の文化かどうかは関係がなくなる。

もちろん、日本国憲法基本的人権について何も書かれておらず、日本が西側の一員でなければ、文化相対主義の立場を堅持しても何の問題もないわけ(それでも国際的には厳しい批判を受けるだろう)だが、残念なことに憲法には、

日本国憲法第11条 - Wikipedia

国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

と書かれてしまっている。

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これは難しい問題だから、自分でも答えがまだ出せていないし、具体的なケースごとに考えていかなければならないんだろうと思う。

ただ、基本的人権の尊重を日本国民が支持している以上、文化相対主義で自己正当化しようとしても、それができる部分はおそらく相当限定されているし、基本的人権の尊重が「正義」であるとして、一刀両断にしなければならない問題も少なくなさそうだと思う。

ネットの徒党や熱狂は唾棄すべきものと思うが(リアルでも同じことだが)、それとは別次元の難しい問題があるのではないか。最近はそのように考えている。