「いいことも言っている」の「いいこと」は本当に「いいこと」か 教育勅語の場合

教育勅語の問題は諸方面から言われているので、ここで書くことは何もないんだけれども、一点だけ、私が書きたいことがある。

しばしば、「教育勅語はいいことも言っている」からいいじゃないかという人がいる。私が言いたいのは「それは本当か」ということだ。世間でなんとなく「いいことだ」と思われている「道徳」が、本当にいいことなのかどうか、もっと疑ったほうがよいのではないか。

そこで、教育勅語から、一つだけ例示すると、徳目の筆頭に、
教育ニ関スル勅語 - Wikipedia

父母ニ孝ニ

とある。この現代語訳は、

父母に孝行をつくし、

だ。

「両親に孝行を尽くすことの何が悪い」と言われそうだ。たしかに、良いことのようである。

しかし、現実を見渡すとどうだろう。

親から虐待を受けている子供が黙って耐えているのは、それは相手が親だからだ。親だから、自分を犠牲にしている。

いやそれは極端な例だといわれるかもしれないが、こういうのはどうだろう。

親孝行はいいことだと思うから、子がいろいろなことを犠牲にして、経済的に尽くす。

私の身の回りには、こういう子供や元子供である大人が少なくない。

そういう場面に接するたびに私は思う。親孝行は本当にいいことなのだろうか。親が子をいいように利用・搾取する名目になっているだけではないか。

・・・

という次第で、世間一般で「いいこと」とされていることでも、実際のところはどうなのか、真面目に考えてみる必要があることが多い。それは教育勅語でも全く変わらず、「いいことも言っているじゃないか」のその「いいこと」が本当にいいことなのかどうかは、それほど明瞭ではない。

したがって、教育勅語は「いいことも言っている」から擁護しうる、というものではないと思うし、それは教育勅語に限らず、世間一般になんとなく「いいこと」と思われている徳目も、本当に「いいこと」なのかどうか。

私は、そう思う。