批判のダブルスタンダードを成立せしめる根拠はどこか―雁屋哲とリフレ派を比べて

鼻血は福島原発由来の放射能のせいだと主張する雁屋哲への批判が大きい。批判そのものはいい。科学的合理性がないという主張それ自体はいいが、どう見てもそれ以上の部分にはみ出ているように見える。

構図はニセ科学批判と全く同じであって、たとえば「実害」があるとするならば、そして事実「実害」が出たならば、その害を受けた人が裁判にするべきであって、外野からできることは相当に限られるし、その限界を乗り越えることは私的制裁と同じことになると思う。

一部に、「御用学者として良心的な専門家の口を封じてきたのは誰か」という批判もあるが、相手がそういうことをやってきたので自分たちもそういうことをやってもよいと言うことには一切ならないどころか、かえって議論の党派性を過熱させ、議論の妥当性を失わせるのではないのだろうか。

細かいことは書かないが、「目くそ鼻くそを笑う」としか言いようがない現実に、嘆息しか出ないというのが本音だ。

しかし今日、書きたいのはそのことではなくて、別のことである。

・・・

私が危惧していることの一つは、批判はいいけれども、何を批判して何を批判しないか、その基準が明確でないことだ。えてして、合理性に基づいた批判の基準があるのではなく、単に徒党、あるいは人数の多寡に依存しているのみではないかと疑っている。

それは、私的制裁、あるいははっきりリンチを肯定することに直結して、大変に危ないことだと思う。

たとえば、リフレ派はこれまで一体何を主張してきたのかというのである。

リフレ派の諸先生がたは、学問上の見解の相違ならともかく、事実レベルでウソを言い続けて、民心を扇動してきた。

たとえば、今すぐ思い出すことだけでも、ECB のドラギ総裁が2012年夏に「ビリーブ・ミー」と言って市場を沈静化させたとき、日本のリフレ派はECBは南欧諸国の国債を無制限に購入することを決めたと言って大はしゃぎした件がある。

このブログでも扱ったところで、例えばこれ。
扇動のための不当表示としての「リフレ派」 part70 - 今日の雑談
ここで引用している高橋洋一の記事がリンク切れになっているんだが、引用している部分を再掲すると、

 ECBは南欧1〜3年国債を無制限で買い入れ、FRB労働市場が改善するまで量的緩和を続ける(QE3=量的緩和第3弾)というもので、ともに、期限や量の制限を付けていないものだ。

 ドラギECB総裁の「ユーロ防衛へあらゆる措置」を行うとの決意は、危険な状態にあったスペイン国債などをとりあえず沈静化させた。

これがまるで嘘だったというのは、金融の専門家の人も突っ込んでいたが、私でも知れたことであったので、このあたりにそれは書いた。
扇動のための不当表示としての「リフレ派」 part68 - 今日の雑談
2012-09-21 - 今日の雑談
2012-09-20 - 今日の雑談

結局、リフレ派はECBとドラギ総裁を、当時の白川日銀総裁叩きのために利用しただけだった。たったそれだけのためにウソをついて扇動した。

他にも、リフレ派が事実レベルでウソをつき続けてきたのはいくらでもある。たとえば、イングランド銀行が金融緩和に踏み切った時は、欣喜雀躍したリフレ派が、イングランド銀行が発行したパンフレットを日本語訳にしてネットにばらまいた。が、その後の英国について、まともに言及しているようには見えないし、ほぼ黙殺して、なかったことにしているように思われる。また、Bewaad さんのブログでもこの種のウソがいろいろ指摘されていた(たとえばこれ)と記憶する。

私は言いたい。

雁屋哲はこれだけ批判されるのに、事実レベルでウソをつき続けてきたリフレ派の諸先生がたが雁屋哲氏と同じレベルの扱いを受けない、批判されない根拠は何か。

・・・

もちろん、批判されるべきものが二つあるとして、その扱いが異なる、批判の軽重が異なるということは、あるでしょう。しかし、私にはリフレ派は雁屋哲と同レベルにしか見えないわけで、なぜ異なる扱いをされるのか、合理的な判断基準を明示してもらいたいのである。

私がこういうのは、もちろん、そこに合理的な基準なぞ存在しないということをよく知っているからだ。

単に、福島「ネタ」なら批判しやすいし、批判に乗りやすいので、みなで叩きまくっているというにすぎず、他方でリフレ派の諸先生がたの場合は批判しにくく、批判はあれども人数が少ない、ということはあるだろう。

しかし、批判が少ないということは、その批判の妥当性合理性が欠如していることを意味しない。むしろ、リフレ派を批判する人が少数なのは、経済学という学問の議論になると話しが難しくなるのは当然で、おのずから議論を可能とする人が限られる。経済学を何も知らない私がリフレ派を批判できたのも普段横文字の新聞を眺めていて、日本におけるECBの議論はおかしいなと思うところがあったからだ。そもそも横文字の新聞を読む人が日本人にどれだけいるかと想像すると、まずそう多くいそうにない。

・・・

私に言わせれば、あるいはあえて言うと、リフレ派の諸先生がたの所業に比べれば、雁屋哲情状酌量の余地がある。あの人は「言うてやった、言うてやった」をマンガでやる人であると聞いているし(私はマンガをよく知らない)、そもそも放射線の専門家ではない、人づてで聞いたことをネタにしただけだ。もちろん、裏付けがないじゃないかという批判は可能であるし、そういう批判はあってしかるべきだが、しかしたかがマンガであって、マンガで常に裏付けをされた確かなものだけがネタにされると期待する方が間違っていると私は思う。それはマンガというジャンルを過剰に評価しすぎだろうという違和感を強く持つ。

件のマンガを読んでないので何とも言えないが、出てきた人の名前を見ると、前町長や放射線を専門としない大学教授などが取材対象であって、この人たちも専門家ではない。取材対象には放射線を専門とする人もいるんだろうが、もしいるのであるとすれば、おそらくもっとも批判されるべきなのはその人だ。もし専門家が雁屋哲の議論を支持するようなことを言ったのであるとすれば、その人こそ本当に批判されるべきだろうと思う。

他方で、リフレ派の場合は様相が全く異なる。

リフレ論を一般に煽ってきたのは、経済学の専門家だった。大学の先生、元官僚など、一般の人がその肩書や経歴を聞けば信用してしまうような人たちばかりで、その人たちがまず、「ちょっと知的でありたい」という層に「布教」しつつ、最後は完全に草の根レベル、あるいはもうはっきり言ってしまえば、右翼を利用してネトウヨまで、「アベノミクス」という形でリフレ論を煽り立てた。

その過程の中で、上記のように「ウソの連発」が存在したわけで、雁屋哲よりもはるかに責任の所在ははっきりしている。

しかし、そのような扇動も、「経済学界の合意を得てから政策として実行にうつすなどという手間と時間のかかることはやっていられない」「切れば血の出るリアルポリティクス」として、不問に付された。

雁屋哲とリフレ派の諸先生がたと、どちらがより悪質か、どちらにより責任を問うべきだろうか。

個人的には、雁屋哲にはやや批判が過度であるが、リフレ派の諸先生がたの場合は全く批判が不足していると思う。批判のこのアンバランスを、どうやって合理的に説明ができるのか。できるものならとっくりと伺いたいものだと思っている。無理でしょうが。

もちろん、だから雁屋哲に対する批判をやめろと言いたいわけではないし、リフレ派を私的制裁にかけろと言いたいのでもない。批判の度合いの差があまりにも恣意的すぎじゃありませんか、このダブルスタンダードはいったい何なのですかと言いたいのである。

そして、こんなダブルスタンダードがまかり通るとすれば、だから私はいつもこういうスタンスをとり続けているんだ、お前らアホかと、声を大きくして申し上げたいと思っている。