ネット○○派 part 437 「正しい」、だからなんでもいいの?

実は某県議の自殺の件について書こうかなと思ったんだけど、さすがにそういう気にならなかった。

このブログは当初から、ネットの徒党の問題がテーマで、ネット右翼を一つの典型として念頭に置きながら、政治的には(日本では)やや遠いニセ科学批判を中心に、リフレ派も同列に扱ってきた。

ニセ科学批判は政治的には一見縁遠く、リフレ派やネトウヨ、はてサなどの直球の政治ネタではないので、やや政治ネタに飽いていた私はニセ科学批判を取り上げたのだった。

そこで、県議の件についても何かを言いたくなったわけだけど、何も書けなかった。

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それでもごく一般論として書いてしまえば、ネットの徒党の問題と言っても、たとえばネット右翼の問題というのは非常にわかりやすいのです。彼らの主張そのものが間違っていたり、理屈が通らなかったり、エキセントリックだったり、とにかくおかしいことが多いので、批判しやすいし、問題点も目に付きやすい。在特会の活動も非常に目立つようになったので、余計にそうなった。

リフレ派も同様です。リフレ論そのものの是非はともかく、彼らの主張全体を見ると筋の通らないことが多いというのは、私が分かる範囲のことは書いたつもりなので繰り返しません。

要はおかしなことを言う人たちが徒党を組む、そのうえで「俺たちが正しい!」と吹き上がる。

なるほど、おかしいですね、となるのは、自然でしょう。

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ところが、もっともなこと、正論を言う人たち、正しいことを言う人たちが徒党を組む、そのうえで「俺たちが正しい!」と吹き上がった場合、どうなんでしょうか。

ざっと見たところ、これを問題視する人は非常に少ないようなんですね。つまり、「正しいことを言っているのに何が問題なのか」と。

これはニセ科学批判が好例で、実はこのブログでもかなり早い段階で書いてきた話でもあります。たとえば、これ。
http://d.hatena.ne.jp/jura03/20090225/p3
ようは、ネット右翼は事実認定の段階で間違ってるが、ニセ科学批判はそうではない、という話に対して、

事実認定が無茶とか価値の押し付けとかは他人だからそう思うんで、ご当人は「疑似科学批判」と同じ意識でいるわけ。

云々と書いている。

そりゃあね。学会やゼミの発表ならいいですよ。徹底的に事実や誤りを追求するのは。徹底的にやるのは大事。

だけど、それが通用するのは、限られた空間で、限られた人たちが、前提や知識を十分に共有しているから、バリバリと議論ができるし、成立もするし、それが許される。

でも、そこから一歩外に出てもまだ同じようにやられても困ってしまいます。なぜなら、前提が全く違うので、徹底的に議論したり誤りを追求できるような環境にはないからです。

ある程度の議論はできても、よほどでないと議論なんて成立しないので、程のいいところでやめるしかない。

「お前はホメオパシーのようなニセ医療ニセ科学の存在を認めるのか」「被害者はどうなる」

と言われたら、そりゃね。ホメオパシーに科学的根拠はありませんと広く宣伝することはあるいは大事でしょう、ネットの活用もいいです。だけど、現実にはホメオパシーを利用する人というのはいるわけで、彼らの認識そのものをどうにかすることは不可能です。

どうも、誤りを指摘することで他人の認識を修正することができる、謝罪を求めたら簡単に謝ってくれると容易にあるいはあまりにも楽観的に考えている人が多すぎます。

そして、他人の認識を無理やりにどうこうすることは、それこそ個人の内面をどうにかしようという話なので、そんなことが許されるわけがなく、最終的にはデマ・ウソ情報・ニセ科学等等と共存するしかありません。

もちろん、誤りの指摘も批判も結構ですよ。大事です。

だけど、それにも限界というものがあるのであって、限界に達したら潔く撤退して、デマ・ウソ情報・ニセ科学と共存する。それより他ないと思います。わたしだって、リフレ派やニセ科学批判にはきつく言ってきたけど、徒党を作って無理やり他人の認識を変えさせるところまでやってきたつもりは、ありません。

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さて、「正しい」側に立って他人を批判する場合もまた、えてして徒党化するわけですが、ま、それが「批判」であるとしましょうか。

その結果、あるいは実生活に大きな影響を受けたり、精神的に耐えられなかったり、最悪の場合では自殺してしまったりする。それもまあ、百歩譲っていいとしましょう。「批判」される方が問題なんだ、というわけで。

では、あなたが主張するその「正しい」はまあよいとして、もし別の話であなたに対して「正しい」ことを言う人たちが「批判」してきて徒党化した場合、どうなります?

精神的に耐えられる人はまだいいかもしれませんよ。だけどそんな人ばっかりではない、むしろ耐えられない人のほうが明らかに多いはずです。そうでしょう?

耐性のない人間が悪いっていう話なら、もう最初からネット利用者に制限をかけて、「炎上耐久力テスト」を通過した人のみネットを利用するようにすればいいんじゃないんですか?

わりにあっさり「批判」される側を問題視したり、その炎上耐性のなさを揶揄したりするわけですけど、それでネットで自由にものを言いましょうとか、表現の自由とか、あなたがた何言ってんの?としか言いようがなくなりますね。

さらに、万が一「正しい」側が実は「間違い」だったりする場合、いったい誰がどういう責任をとってくださるんですか?誰も責任なんてとらないですよね?

・・・つまり、「正しい」俺たちによる徒党は、「正しい」から何をやっても無問題だというわけでは決してない。それはありえない。

「正しい」からこそ、むしろ抑制的であらねばなりません。

ところが、現実には「正しい」俺たちだから、徒党でも何でも悪くない、という議論にたいていなってしまう。

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だから、ネット右翼が事実を語ってないとか、ニセ科学批判は他方で正しいとか、それはどうでもよい話だ、という部分があって、たとえばリフレ派の場合、リフレ論そのものが正しいか否かは、はっきり言ってどうでもよいのです。

リフレ論が正しかろうと間違いだろうと、リフレ派の連中は自分たちは「正しい」と信じている。自分たちが正しいと信じる、信念の強度が問題です。

その信念の強度において、ネットリフレ派もニセ科学批判もネトウヨも、その他もろもろのネットにみられる「批判」と称する烏合の衆の徒党は共通しているのであって、だから振舞いが似てくるのです。

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わたし、このブログの最初期にこういうのを書いてんですよね。
http://d.hatena.ne.jp/jura03/20090208/p2

でも、倫理の城に立てこもってる人たちはいいよね。

倫理だから、常に正しい立ち居地でうんこ投げてるだけで、政治をやってるつもりになれる。

政治ってそうじゃなくて、現実をいったん受け入れなきゃいけないし、

そうすると現実と理想のあいだで良心が引き裂かれるように痛むんだが、

倫理の城にたてこもってると、そういうことにならない、

あるいは倫理の城に立てこもることそれ自体で自己の良心を保障するから、

楽なんだよな。いいなあ。

そりゃ個人ブログであれこれ書くだけならいいですよ。「無力」ですから。

でも、ネットだとたいていそこから、仲間内でつるみだして、徒党になるじゃありませんか。

徒党になって、陰謀論だのなんだの、ボロクソ言って、数の力で押しつぶそうとすることが「批判」だとか言って開き直るのがネットの常じゃありませんか。

こんなのでいいわきゃないだろうと思うんですよ。少なくとも私は。