黙っていられないこと part11

このブログをヲチしている人たちはよくお分かりだと思いますが、「黙っていられないこと」では私は相当に筆致を抑えています。


問題がデリケートだからというだけではなく、この静かな怒りと白々しさについて、誤解を極力避けて伝えるにはどうすればいいか、苦慮しているからです。

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橋下の一件が起こってから、私は05年ごろに発生した人権擁護法案反対運動のことを思い出していました。この反対運動があったから、僕はニセ科学批判にも懐疑的批判的スタンスを取るようになったのですが、それはともかく、当時のことをご存じない方もおられるようなので一言だけ説明したいと思います。


人権擁護法案反対運動とは、平たく言えばある一つの法律案をネタにして極右が差別的言辞をばらまいてナショナリズムを煽り、右側へと動員しようとした政治的扇動でした。


それがいかに醜い扇動であったか、再びbewaadさんの「人権擁護法反対論批判 趣旨説明編」を引きたいと思います。
http://bewaad.sakura.ne.jp/20050329.html#p01

最後に、反対派の中には、人権擁護法は現代の治安維持法人権委員会人権擁護委員は現代のゲシュタポ特高と称すべきものだとの言論が散見されますが、独断と偏見であると断った旨であえて申し上げます。


「反対論に見られる在日韓国・朝鮮人解同・部落出身者、創価学会に関する陰謀論の多くは、「我が闘争」におけるユダヤ陰謀論に極めてよく似ています。」


陰謀論の対象がマイノリティでないだけ、朝日新聞などの「軍クツ」論や行政不信論の方がよほど罪が軽いと言えるでしょう。

あのbewaadさんがここまで書いている、ということからそのひどさを想像していただきたいと思います。

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もちろん、ネットに数多くおられる良識的な人たちはこの種の差別的言辞には一切同調することはありませんでした。


ただし。


極右の扇動の結果、良識的な人々も過剰な不安を抱き、この法律に極めて慎重な姿勢を取った人が多かったことを忘れてはなりません。


つまり、結果的には極右の扇動にみんな流されてしまった、と言っていいと思います。

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私は、この惨状を見てひどく憤りました。もちろん、法律の専門家ではないので、様々なサイトを読みながら、自分なりに噛み砕いて、そして人権擁護法案反対運動を批判し続けました。(その時に、いささかのやり過ぎもあり、その反省が以降続いていてこのブログにいたっていることも書き添えておきます)


極右がネットに垂れ流し続けたことはほとんど全てウソ・間違いだったわけですが、これに反論するには、彼らの主張をすべて分解してやって、一つ一つロジカルに切り返す必要があります。


当然、bewaadさんのブログも熟読しました。


大変でしたよ。ええ。

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ところで、橋下の一件があってから思い出したのですが、人権擁護法案反対運動の際、法曹関係者のブログなりまとまった見解なりに依拠してものを書いた記憶があまりないことに気が付きました。


思い起こすと、たしかに法律プロパーであると思われる人が二人三人いて会話したし、ブログも見ました。。。あと小倉秀夫先生もいたかもしれない。


しかし、言うまでもなく私は法律のことは何も分からないので、人権擁護法案を扱った法律家のブログなりサイトがあれば、間違いなく依拠していたはずですし、記憶にしっかりと残っていなくてはならない。


ところが、そういう記憶が例外を除いて私にはほとんどない。


現実にはたかが官僚ブログのbewaadさんのものがもっとも網羅的であり、想定される運用も含めて、妥当性が高かったのではないかと思います。

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今になって思うわけですが、現在「差別はいけない」と言っている法律家・法曹関係者の人が、みんなとは言わないけれど、もうちょっと何か言ってくれていれば、随分楽だったのではないか、と思います。


たしかに、賛成にしろ反対にしろ、愚論妄説にいちいち付き合ってられるか、という専門家の態度というのはよく分かります。


それでも、たとえば「賛成反対の議論をきちんと行うには、何より現在広く語られている差別的言辞や陰謀論まがいの議論は排除されるべきだ。そして、ネットで広く信じられている解釈にはかくかくしかじかの誤りがあるけれども、この法律案の議論の要点はかくかくしかじかになるであろう、しかし非常に難しい問題であるよ」云々、ということを言ってくれていたら、随分楽だったことは間違いない。


・・・でも、専門家サイドからはほとんど誰もそういうことを言ってくれなかったんです、あのとき。


いや、わずかでも確かにそういう人がおられたことは間違いないところだし、私の乏しい記憶力が事実を捻じ曲げて記憶しているということもあるのでしょう。


でも、今のようにかなりはっきりした明確な姿勢を皆とっている、というわけでは決してなかったように思う。


差別的言辞や陰謀論の伝播は(たとえ合法的であっても)許されることではないだろうという最低限の一点については、みな同意できるはずなのに、です。

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その後、同和・創価・特亜に関する言説は右翼の定番の「ネタ」としてほぼ定着したように思います。おそらく反対運動の一部は在特会などに流れたはずです。


現在は、Twitterで「日の丸アイコン」としてからかわれる人たちの議論などなど、この種の差別的言説は当時ほどではなくとも、日常的に見られる状態です。

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念を押しますが、法律家の先生方が何らかの悪意を持ってこういう対応をされているとは思いません。むしろ、なぜそういう対応になるかについてはかなり同情的です。


しかし、個別的には客観的な判断をしているようでも(例えば、今回の事例では「自分は橋下支持ではないが」という前置きを置きながら、ある判断をする場合)、判断を下すタイミングや言明の程度の差によって、自ずからある意味が生まれます。(例えば、大屋先生が新潮・文春の時はさらりと済ませて、「アサヒ」の時は罵倒し倒すことによって生まれる政治性)


その差異から生まれる意味は、時に極めて重要なものとなりえます。


もし、意図的にそういう意味が生まれるような言動を法律家の皆さんがしているのであれば、これは弁解の余地はない、でしょう。


でも、そうではないと、私は信じています。あくまで結果論であろうと。しかし、この結果論は時に重大で、もうちょっと反省されてもいいのではないか、という気はします。

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蛇足ですが、橋下は弁護士であって、彼の支持基盤は主に右派であります。