ネット○○派 part402

メモ。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20120719-00000732-playboyz-soci

批判に対しては「確かにそうだな」と謙虚に地道に思考を積み重ねるしか、今の状況を打開する方法はない。「脱原発派のなかでおかしな人はごく一部で、そうじゃない人が大多数」というなら、まともな人間がおかしな人間を徹底的に批判すべき。にもかかわらず、「批判を許さぬ論理」の強化に本来冷静そうな人まで加担しているのは残念なことです。

これは、ネット○○派でも全く同じで、ネット右翼や○○反対運動などの政治的集まりはもちろん、ニセ科学批判やリフレ派も全く同じだ。「まともな人間」が「おかしな人間」を批判することがまずない。やっても徹底的にやらない。


だから、平気でダブスタでも何でもやるし、自己正当化の論理に凝り固まってしまう。

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ここで開沼が「「批判を許さぬ論理」の強化に本来冷静そうな人まで加担している」というのは全くそうで、このへんは見分けがつきにくいのでうっかり引っかかる。


例えば、ニセ科学批判がホメオパシー叩きと鍼や漢方の擁護というダブルスタンダードをやるとして、たいていこれは黙認されてしまうか、あるいは「冷静そうな人」が二重基準を正当化する論理を組みあげようとする。。。そういう形で、「批判を許さぬ論理」を黙認してしまうんですよ、結局。仲間内を批判しないから。


開沼は脱原発派について触れれていて、もちろんそれほど急進的じゃない脱原発志向の人、いわゆる現実的脱原発派や原発推進のサイドも全く同じなんだろうけども、しかし別の意味でひどくてね。


「現実的脱原発派」の人は、たいていは現状維持あたりから議論が出発するので急進的脱原発を志向している人たちにとっては不満だ。したがって「お前は原発推進派だ」みたいなことを言われる。


その時にたいてい、「自分は原発推進派じゃない」「自分ほど脱原発を真面目に考えている人間もいない」「自分は現実的脱原発派だ」等々と言い訳する。。。ようは、世間なり批判なりの相手が面倒だからこういう言い訳をするんだろうけども、でもようするに単に世間に媚びているだけだ。


というのもよくよく考えると、「現実的脱原発派」なるものの傾向を考えると、目先の部分だけを切り取られれば、見ようによっては「原発推進派じゃないのか」などと言われてもむべなるかなという側面はあるんです。


つまり、ある態度に対してはどうとでもレッテルをはりつけられるんだから(もちろん、私が使っている「ネット○○派」というのも、便利だからこう言っているに過ぎない)、いちいちむきになって「自分は現実的脱原発派」などと言い訳する必要性も必然性もなく、堂々と「あなたがそうおっしゃるなら自分は原発推進派でも構いませんが、それが何か?」と言ってやらねばならない。でも、そんな人は少ない。


そういう形で、結果的には「脱原発派」内部の批判を避けてしまっていて、、、「批判を許さぬ論理」の黙認をやってしまっている。そして「脱原発派」内部の批判が利かなくなる方向へと進むんだけども、そこまで考えている「現実的脱原発派」の人たちはおそらくかなり少ない。


かくして、ある空気が支配してしまってそこから逃れられなくなってしまうという、ま、リフレ派やニセ科学批判、ネット右翼と同じ現象を「本来冷静そうな人まで加担し」つつそのまま繰り返してるんだろう。僕は、そう思います。