ネット○○派 part376

やや古い文章だけど、今ごろになって気がついた。
疑似科学的思考批判:王様は裸だ!Annex:So-netブログ

 私同様「ニセ科学批判業界」にモヤモヤしたものを持っている人の目に止まって、何らかのヒントを植え付ける事ができれば幸い。

ということで、個人的には言いたいことはほとんど全部言ってしまったので、ヒントというよりも、まあ、やっぱりそう思うでしょという点をいくつか。


ニセ科学批判まとめWikiをやり玉にあげている。
トップページ - ニセ科学批判まとめ %作成中 - アットウィキ
で、これは以前ちょっと書いたけど、このまとめWikiは削除した方がいい代物で、無茶苦茶を真面目に書いてしまっている。


上記のブログでも定義の問題からグレーゾーン問題の扱いまで、こってんぱんにしていて、つまり定義だの何だの言いながら基準が全く伸縮自在、

 自分達が「ニセ科学」と呼んでいるモノはこのような条件を満たす、と言い張りながら、どう見ても「満たすことが確認できない条件」を平気で並べる様は、病的な感じすらする。

と書いていて、病的というと言いすぎかと思うけれども、滑稽ではあります。

最大の疑問は、ここまで無茶な定義を言い張って何の意義があるのか、という事だ。

ないないw。


問題意識の発端はオウム事件で、その気持ちは分かるんだけど、なぜかこんなことになっちゃた。

中には「社会規範」を持ち出して高尚さを装った人もいたけど、結局は同じように”メモリが伸び縮みする物差し”の如く社会規範を(都合よく)解釈しているだけにすぎなかったしね。

ウソはいけない、詐欺だ、人が死ぬ。。。そりゃ一般的に、世間の道徳としてはよいことじゃないですよ。でも、それで自分の言動をどこまで正当化できるかは全く別問題。


この部分、ニセ科学批判だけじゃなくて、だいたいみんなここに引っかかるね。「○○なんてダメに決まってる」の「決まってる」をちゃんと検証してみない。

・・・

 「科学は間違うが、ニセ科学は間違わない」と菊池先生は言ったが、自分に都合の良い各論しか認めないで「間違ってない」といい続けるって、いったいどの面さげて「反証可能性」の話を偉そうにするんだか...。

全くそうで、そこでミイラ取りがミイラになっちゃってんの、ニセ科学批判の人たちは分かってないんですよ。


科学として正しいことと世間の道徳として正しいことを重ね合わせて絶対に負けない理屈を作った。自分たちは絶対に負けないんだから、反証可能性がないw。あれだけポパーポパー言ってる人たちなのにw。

 結局、「ニセ科学の恣意的な認定」という非難の火種をあえて抱えたにも関わらず、その無理を通しても説明力に欠く主張しかできないわけだよね。

ということですわね。批判対象の定義は何か分からないので、外国の疑似科学批判団体がホメオパシーを叩いてるからとか、ゲーム脳叩いたらオタクに受けるとか、鍼や漢方は叩くと支持がなくなるとか、そういう基準で叩きたいものを好きなだけ叩けることになってる。

ニセ科学批判まとめ」を見ると、「ニセ科学批判批判」対策としての理論武装を狙っているのがアリアリと分かるのだけど、残念な事にこれまで述べたように、むしろ、逆のベクトルに進んでしまっている。


 おそらくは、自分達がかかわっている「ニセ科学批判」に対し、(クリティカルシンキング的な意味での)批判の目で見ることができないからこうなってしまったのだろう。

だって、自分たちは絶対に正しんだもの。

ニセ科学」を問題視する人が、「どんな問題があるか」、「どんな問題の可能性があるか」ってのを知って欲しい、って気持ちはよく分かるけど、「その問題が全体の中でどれぐらい生じているか」、「その問題がどのくらいの可能性で生じるか」というバランス感覚も必要じゃないかな。

いや、全くその通り。


ところがですよ。こういうことが分からないで、ホメオパシー叩きにのっかってる東京の某大学の有名な先生がいて、その専門が政治学なんですよ。もう信じられないわけです。政治に詳しい人のはずなのにこういう運動の問題性に敏感でないってなによ、それ、と。で、やっぱりこの先生はシノドスなんかに物を書いたりしてるわけで、もう脱力もの。専門はしっかりしてるはずだと思いたいけれども、個人的にはネット上の評判の高さに関わらず、あまり信用してない、というよりも信用できなくなってしまった。


ニセ科学批判に引っかかる方も引っかかる方だと思うんだけれども、いや、いかにニセ科学批判が必要以上に信頼されているか、イメージよすぎているかと。


追記
別のエントリで次の部分は非常に重要だと思った。
難しいコトバ:王様は裸だ!Annex:So-netブログ
仲間内だけで通じる言葉をつかって外部との閉鎖性を高めている点を指摘した上で、

「コトバ」に関するそういった性質は、実は悪徳セミナーやら新興宗教やらで利用されている。


 「自分達の仲間内」のみで通用するような言葉を使い合うことで、信者同士に特別な結びつき感、あるいは「その素晴らしいコトバを知らない」部外者に対する優越感を抱かせる。
 さらに恐ろしいのは、その言葉に固定的な意味を付与し、それを積極的に多用させようとする事で、思考の範囲を硬直化させてしまい、所属する集団に対する疑問を生じさせ難くするのだ。

これに付け加えたいのは「周回遅れ」という単語の安易な使用。彼らが「周回遅れ」というのは、とっくに議論済みなことをまた蒸し返してるからだと思う。で、実際そうなんでしょう。


しかし、仲間内で議論されて済んでることと、問題が解決されていることは必ずしもイコールではない。だから、周回遅れの議論でももっかいやってみるのは必ずしも無駄とは言えない。当たり前のことだと思う。


ところが、彼らにとって「周回遅れ」というのは議論済みであると同時に解決済みを意味していて、「まだそんなこと言ってるのか」ということを意味する蔑称になっている。


つまり、「周回遅れ」の奴は分かってない奴なんで、他方で「俺たちは分かってる」という話に容易になるので、あとは書かれている通り、仲間意識を強くするようにしか働かない。