ネット○○派 part347 

ネットで、何が正しい間違いって大事だけどあまり大事じゃないと、いつくらいからこのブログで言い始めてるのか忘れたけれど、ツイッターなんか見てるととくにそうでね。


ポンとある情報があるとして、正しいも間違いも善も悪も、それ誰が決めるのって言うと難しい問題で、たとえ専門家の話でも怪しい部分があって、放射性物質絡みの物理学の先生たちのああいうのは例外の部類。


たいていは、「誰それさんがそう言っていた」という「誰それさん」の(ネット上の)信頼性で、ある情報の信頼性なり善悪なりが担保されてばっさり決まっちゃうわけで、、、いや、これは仕方がない部分もあるんだわ。ネットの情報を取捨選択するのにいちいち真面目に全部読んでチェックしてられないから、「誰それさん」段階で態度を決める。それは分かる。


で、それはいいんだけども、ネット上の有名人なりリアル有名人なり、あるいはネットの知人でもいいんだろうけれども、そういう人たちがあることを言っているというのが信頼性の担保になってる場合、それでほんとにいいの?ということも、以前書いたように思う。


きっことか早川先生、東海アマのようなのは分かりやすいから叩かれるだけでね。ニセ科学批判みたいに凝った理屈とポジション取りをすると対応が変わってるんで、あまり大きな疑問を感じないままこれが正しい善だと流れてしまうのは結構怖いことだと思うんだけれども、そう考えられないらしいんだな。


「つながり」とか「絆」を求めてネットに接するとか、そこから情報を得るとかいうのは、その情報の信頼性とかある問題に対する姿勢や善悪まで必ずしも保証しないはずで、だからこそネットに「つながり」とか「絆」とか「欲しい情報が得られる」とかを求めてはいけないと思うんだけれども、現実は逆になってる。


ただ「つながり」とか「絆」だけ、個人レベルでそれで遊んでるだけなら個人の勝手だけれど、「誰それさん」が言っていることの内容が「誰それさん」の有名具合で単純に信頼されたり、あるいはあれは悪なんだこちらが善だと「つながり」を根拠にしてみんな一緒にわいわいやられるのは、ちょっとどうなの?と思う。


ネット○○派ってこのへんと関係があるような気がしてならない。

追記
だから、ネットの情報は一律信頼性ゼロとしてまず最初に教えた方がいいんじゃないかと思うんだけど、これもまた現実は逆になってる。


僕がこのブログの冒頭に書いているのは、ネット民に対する皮肉もあるんだけれども、なんか、そういうふうに読んでくれなくて「オチ」みたいにしか読まれないんだよな。


みんないい加減なことを言って、あるいは信頼があるように見せかけて書いて、そのいい加減なことに信頼を寄せてるのがネットだったりするのに、と思うんだけども。