ネット○○派 part311 ニセ科学批判がとるべきだった道

ニセ科学批判の問題意識の一つは、オウム事件です。自然科学系の優秀な院生たちがオウムに走ったことは何を意味するか、ちゃんと勉強研究していれば信じるはずのないことを信じていたんじゃないか、なにがおかしかったのか、というわけ。


この問題意識そのものは分かる。


で、これは、社会問題を扱うというよりも、やっぱりものの考え方のほうをどうにかしたいという意味でしょう?合理主義を正しく広めたいというのが、正しい答えにならなければおかしいわけです。消費者問題になったり社会問題を引き起こしたりするのは、あくまでも結果であって、問題はものの考え方のほうです。


これに対してとりうる道というのは、すぐ思いつくものとしては二つあります。


一つは、海外の懐疑主義者団体の真似をそのままやる。ありとあらゆる非合理を問題視し攻撃し茶化す。


ニセ科学批判の人には自覚なくこの手の傾向を有している人がいて、だいぶ以前だけど政治もすべて合理主義的にやれば非合理なものがなくなっていいんじゃないか、みたいなことをうっかり言っている人も、います。(しかもこれが、いかにも善人で素朴に言ってるだけなので、余計に始末が悪い)

もう一つは、教育における自然科学分野の充実を地道に訴えるという道があった。ただこれは面倒くさくて片手間ではできない。


でも、これだったら普通に誰でも乗れる話であって、現実には難しくても、まあそうですねと言う以外にない。正攻法だと思う。

ニセ科学批判が現実にとった道は、「ニセ科学」なるものを取り上げて叩くということだった。たしかに社会的に問題となりうるものを科学の立場から学者が批判するというのは、一見ごもっともだし賛同も得やすい。


ところが、当初の問題意識に正しく答えているかと言うとそれははなはだ疑問であって、、、そもそもなんで「ニセ科学」なるものを設定しなければならないのか、よく分からない。


現実には、「俺様たち基準」で選定された「ニセ科学」なるものを科学の合理主義的立場から容赦なく叩くことしかやってない。こうなると、ネット右翼が韓国や中国を叩いてるのと全く同じになってしまう。


しかも、ニセ科学批判の人たちは自分たちがネット右翼と同じことをやっているという自覚が全くないので、余計におかしくなる。


オウム事件云々の話はどこに行ったのか。というか、まあ、「理系」の人は自分は論理的合理的だという認識を持ってるのかもしれないが、ニセ科学批判見てるととてもそうは見えないな、という話にならざるを得ない。

以前からずっと感じていたんだが、ニセ科学批判はニセ科学批判をやるのではなく、素直に教育の充実を訴える方向に行っておけばよかった、あるいはなぜそちらの方向にいかなかったのか、と。


そういう方向に行かなかった時点で、ニセ科学批判ってもう終わってたんだろうなと思う。そしてそういう選択をさせたものって、合理性でもなんでもなくて、毎度言うようにその人の「思考の癖」「性格」なんだろう。