ネット○○派 part297 ネット○○派は議論の土台を疑わない

切込隊長やまもといちろうさんの次の記事は、ネット○○派はこれですということを端的に書いてますよね。
ウェブ時代のクレーマーの群集化、その心理: やまもといちろうBLOG(ブログ)


あとこれに付け加えるなら、ネット右翼だとかリフレ派だとかニセ科学批判だとか、核になるものがそれぞれ違うというだけです。


ネット右翼だと、「日本人なら日本と言う国を愛するのは当然だ」「日本人なら日本を思って当然だ」というところから始まって、たいていここが議論の土台になっています。


リフレ派だと「クルーグマンはこう言った、バーナンキはこう言った」つまり経済学の議論として確からしいのはこうだというのが議論の土台になっています。


で、この辺りはまだいいんですよ。政治経済の問題だと、視点をはずして「でもさー」ということはさして難しくないので。。。まあ、それでも「日本人が日本を愛するのは自然の感情」とかいうのを当然の原理だとして信じ込んじゃってるような類もいるだろうけどもね。


ところが、ニセ科学批判ってこういうことが難しいようにできてるんです。ネタが科学だから。価値中立だの客観性だの、見掛けから一般性・普遍性がある議論であるかのように錯覚する。それが議論の土台になってるし、正義意識を昂進させるもとにもなっている。


だって、科学的に根拠がない、あるいは間違っていることを言っている人(たち)がいる、自分たちは正しいことを知っている。しかも社会的に問題のあることを科学名目でやられているのを見て、そこで間違いを指摘して正すことの何が悪い、と。


実際は、何度も書くけど海外の懐疑主義団体にしろ疑似科学批判にしろそれなりの社会的文脈が背景にあって成立しているものであって、科学の議論だから普遍性があると一直線にはいきません。もちろん日本のニセ科学批判も同様で、何度も書いたように結局科学の問題じゃないんだから、立場そのものには見かけほどの普遍性一般性はないんですよ。


だけど、普通はそこまで考えないので、見かけで釣られちゃう。見かけは確かに科学の問題ですもの。そこに「詐欺は悪い」「人が死ぬ」「差別はよくない」とやられたら、もう立場そのものの相対化なんて難しくなります。


ニセ科学は批判するのが当然だ」と主導者の一人が自分で言っちゃうあたりに、このへんの問題や錯覚ぶりが示されてるんです。

そこで最初に戻ると、結局、ネット○○派って自分たちの議論の土台を全く疑わないところに問題があるんですよ。ネット右翼なら「愛国心は自然の感情」「日本人として○○は当然」みたいなところを疑わない。リフレ派もニセ科学批判も同じです。


土台を疑ってやれば、ひょっとしたら別の結論がでてくるかもしれないぞ、別の議論ができるかもしれないぞと考えられるはずだし、また本来ならばそうあるべきなんだけど、ネット○○派を構成するほど凝り固まった人たちというのは、たいてい彼らの議論の核そのものを全く疑いません。


議論の核や土台を疑わないから、だから自分たちは正しいんだという議論をどこまでも組み上げてしまうし、同じ土台を共有する人たちの間で正義感覚も共有するし、「お前は間違ってる!」「俺たちは正しい!」の世界観があるから、徒党を組んで罵倒でもなんでもするし、陰謀論も出てきちゃう。


・・・いやあ、ネット右翼やはてサやリフレ派の政治経済ネタの人たちがこれにはまるのは分かるけど、懐疑主義を宣伝するニセ科学批判の人たちが自分の立場を反省しないんだから、たちの悪いジョークにしか見えないよね。