ネット○○派 part296 一般性があると思うのは見掛けだけ

某所で中世哲学研究の人が、似非科学についてちょっと考察しておられたのを読んで非常に興味深かったんだが、例によってここにはリンクしない。


ただ、この中世哲学研究の人は、もちろん日本の「ニセ科学批判」をちょろっと見て書いた、あるいはインスパイアされたはずなんだが、しかし議論を非常に一般的なところに寄せて書いている。ニセ科学批判限定じゃなくて。ここに僕なんかは引っかかる。


まあ、ニセ科学批判が錯覚させるところって例えばこういうところにもありますよ。僕もブログを書きながら気がついたことだからよく分かるんだけど。


ニセ科学批判の悪口を書く際には、ニセ科学批判の次元でおかしいことと、そもそも海外で懐疑主義者団体を作ったり疑似科学批判やったりしている連中のおかしいところと、分けてやらないと混乱します。


日本のニセ科学批判の問題は、表面上科学だの何だの言いながら実態はそういうことと全く違うし、科学の問題と世間の道徳の問題と二股かけるし、「ニセ科学」基準が結局合理的でない「俺様たちルール」しかないし、云々と、この手の類のことがニセ科学批判の問題としてあげられると思います。


他方で、海外で懐疑主義者団体を作ってるような人たちや疑似科学批判で団体を作って運動している科学者のような場合は別次元の問題があって、そのような場合、先の中世哲学研究の人が指摘してるような、、、簡単に言うと人間は合理性だけの生き物ではないという話だったんだが、、、問題が出てきます。


で、日本のニセ科学批判は、海外の懐疑主義者や疑似科学批判の影響も受けているらしいので、こういう問題も同時にあって、、、なんというの、合理主義折伏運動の表面だけ、悪いところだけ真似ちゃった、とでも言えばいいのかね。

もっというなら、この中世哲学研究の人の「錯覚」がどこにあるかというと、「ニセ科学批判」が科学の体裁をとっていて、それなりの普遍性を有するとパッと見てそう考えてしまったから、だから錯覚して一般的なところに寄せて書いておられたのであって、日本のニセ科学批判と海外の疑似科学批判と分けて考えてみましょうとか、すぐに思いつかない。


「科学」の体裁をとっていることの弊害があって、これはその一つの表れ方だと思います。
追記
日本のニセ科学批判の人たちは、海外の懐疑主義者を賞賛するときに都合のいい人しか引っ張ってこないんだけど、まず疑似科学批判や懐疑主義団体に入るような懐疑主義者ってキリスト教なり宗教を批判するのが普通にいます。だからこそ、ドイツの懐疑主義者団体は無駄な議論や団体の分裂を回避するためにそこは「世界観の問題」だとして問題を見て見ないふりをしているので、日本人のようにあっけらかんと「科学と宗教はすみ分けできるでしょ」みたいなことを言ってしまえる土壌や文脈、社会背景とは全く違います。


海外の活動は合理主義折伏運動として徹底してる部分があってそのつもりで見れば分かりやすいし(是非はともかく)、こういうことが根にあって初めて疑似科学批判がでてくるんで、表面的に真似してニセ科学批判としたり、あるいは都合のいい、わりに穏健な懐疑主義者を引っ張ってきて「そうだそうだ」とやることに意味は全くありません。