ネット○○派 part283 不毛でしかないネット上の「自由な議論」

自由に議論できることはそりゃ結構なことだと思うんです。


ただ、「自由な議論」がそれほど賞賛されるべきことかどうかは知りませんよ。

以前から言ってるように、いろんな人が自分の意見を言うことは大事で、その自由は確保されたほうがいいと思う。ネット○○派が嫌いだと書き続けてるのも、そういう理由からきている(と自分では思う)。


だけど、「自由な議論」というのはこれはこれで問題で、議論ができる相手とできない相手がいるということも前々から書いている。で、できない相手と議論したって不毛なだけ。


僕は、ネット右翼や○○法案反対運動の人たちと、ま、少しは対話したかなあと言える程度の経験しかないけれども、不毛としか言いようがなかった。同じ疑問の繰り返し、強引な誘導尋問、全く話が通じない。それでも、話が分かってくれそうな人を見つけて語りかけてみたけれども、ちっちゃいもんでした。


他方で、ニセ科学批判にしろリフレ派にしろ、おそらく相当の「自由な議論」をやったはずだと思うんだけど、何事か生まれましたか?不毛でしょ?


知らないけど、歴史に関する似たような不毛な議論を、またぞろやってんだろな。アホくさいんだ。

もっとも、たとえ不毛でも議論をすることに意味があるということも言えて、それはそれで分かる。


ただね。「日本は侵略戦争をしたかしないか」で議論をするのは不毛の極みで、こんなもんで「自由な議論はいいことだ」とか言われたらたまったもんじゃない。

もうずっと、ネットで徒党を組んで異論を潰しにかかるとか罵倒するとかいうのは問題だと書き続けてるんだけれども、他方でネット右翼もいてもいいとも僕は言っている(そういう意味で、ネットでは普段より余計に「相対主義者」やってる方が平和だとも書いた)。また、○○法案反対運動をせせら笑っているうちに、ミイラ取りがミイラになりかねんぞということも書いた。


たぶん、ネットでは、自分の意見を自分なりに言えることが幸せであったり大事なんであって、自由な議論や対話はしばしば、というよりほとんどの場合、不毛で無意味なのが現実で、どうしようもないんでしょう。


それを承知の上で議論するなりなんなりするのは、人の勝手だから私は知りませんけれど、なんか「自由な議論」や「対話」をむやみに賞賛するのはいかがなものか。「対話」や「自由な議論」の大事さを簡単に言ってくれるけれども、と言うのが今のところの僕の意見。


ちなみに、僕の意見に従うと必然的にクラスタ化が進行して、ますます馴れ合い集団ができあがることになるんだけど、それはそういうものだと諦めるなら、まあ仕方がないのかなと今は思う。


そこで、ただの馴れ合い集団はただの馴れ合い集団であるという認識を持つことが大事なのであって、ただの馴れ合い集団を何か別物の、とりわけいいことのように語ったり錯覚させたりして物語ることの方がよほど問題で、馴れ合いだと自覚が持てるんであれば、それはそれなりのネット上の振る舞いになるはずなのでは、と。