ネット○○派 part271 「コミュニケーションのできなさ」を前提にしておけば・・・

ついでだから内田樹先生の記事からもうちょっと書いてみる。
ネット上の発言の劣化について - 内田樹の研究室

言論が自由に行き交う場では、そこに行き交う言論の正否や価値について適正な審判が下され、価値のある情報や知見だけが生き残り、そうでないものは消え去るという「場の審判力に対する信認」のことである。
情報を受信する人々の判断力は(個別的にはでこぼこがあるけれど)集合的には叡智的に機能するはずだという期待のことである。

まずこれがありえない。ネットの現実はこういうことになってない。


相当の条件がそろえば、この手の「審判力」が出てくる場合もあるとは思うんだけれども、ごく一般的にはネットでは「叡智的に機能」なんてしない。それこそ「情報の質を決めるのは受信者」みたいなことになりやすい。それに一旦デマが流れたら、修正情報が出ても実際として修正されにくいというのはよく言われる話。
追記:専門家同士でその専門分野について語った場合、機能するんじゃないかとチラと思ったんだけれども、それも簡単にはいかなさそうだとすぐ思いなおした)

根拠を示さない断定や、非論理的な推論や、内輪の隠語の濫用や、呪詛や罵倒は、それ自体に問題があるというより(問題はあるが)、それを差し出す「場」に対する敬意の欠如ゆえに「言論の自由」に対する侵害として退けられなければならないのである。
繰り返し書いている通り、挙証の手間暇や、情理を尽くした説得を怠るものは、言論の場の審判力を信じていない。

よく分かるんだけど、現実問題として「言論の場の審判力」が信じられる状況じゃないんだから、こういうことを言っても無意味。


ちょっと飛ばして、、、

自分の主張に含まれている「思い込み」「事実誤認」「推論の間違い」などについて、価値中立的な視点から精査する自己点検システムを含まないステートメントは、そのコンテンツの正否にかかわらず「質の悪い情報」に分類される。

いや、もうよく分かるんだけど、ではネットでどうやって「価値中立的な視点から精査する自己点検システム」を確保するかというと、それはできないんだから、ネット上のあらゆる言説は基本的に「質の悪い情報」に分類されるということになりますわね。


強いて言えば、たとえば官公庁が出す資料なり、記者会見の動画・文字起こしのようなものは「質の良い情報」の一つになるんでしょうけど、それも限界があって、そもそもこの種の資料に素人が素手で立ち向かったところで限界はやっぱりある。


一方で、「なんちゃら大学の○○先生が真実を告発!」みたいなのがあればすぐ喰いついて、対談だの何だの言ってネットに登場させるとか平気でやる。まず、専門家同士で見解をすり合わせてくれということにならない。まさに、内田先生が言っているのと真逆をいく。しかも「有名人」が率先してこれをやる。

内田先生のこれが評価しづらいのは、だけど問題意識そのものはよく理解できて、というか共有できて、

真理についての検証に先だって、自分はすでに真理性を確保していると主張する人間は、聴き手に向かって「お前がオレの言うことに同意しようとしまいと、オレが正しいことに変わりはない」と言い募っているのである。
それは言い換えると「お前なんか、いてもいなくてもおんなじなんだよ」ということである。
私たちはそういう言葉を聴かされているうちに、しだいしだいに生命力が萎えてくる。

という気分や、「攻撃的なコメントが一層断定的になり、かつ非論理的になり、口調が暴力的になってきている」という指摘も、まあ分かるんだ。


ただ、僕と内田先生と違うのは、内田先生の場合はまだ期待が残ってて、期待が残ってるから次のように書ける。

ネット上に「呪詛」を書き込んでいる諸君は、それによって他ならぬ自分自身を情報化社会の最下層に釘付けにしていることに気づいて欲しいと思って、この文章を私は書いている。

というんだから、期待が残ってる。で、最後の「たぶん、ご理解いただけないであろうが。」ではっきりして、僕だったら「たぶん」を取ってしまう。「まず理解できない」とか「どうせ無理」とかいう話にする。

僕の考えだと、ネット上で意志疎通を図るのはそもそも非常に困難であって、というよりも不可能だというところから始まる。


理解されないのを知っているのになぜ書くのかというと、書きたいから書くんだとか、抑えがたいから書くんだとかいうことなんだが、結局単なる期待じゃなくて絶望を前提にした祈りみたいな気分で書くいう話になる。


内田先生は罵倒そのものを問題にしてるけど、そこは問題じゃないと思うんだな。さっきの引用部分で、

「お前がオレの言うことに同意しようとしまいと、オレが正しいことに変わりはない」

という「お前がオレの言うことに同意しようとしまいと」という部分が多分に問題で、、、たぶん「同意しようとしまいと」という気でいてくれたら、それはそれでまだましなんですよ。「お前」の勝手自由は確保してくれているわけだから。悪罵に耐えるなり、見ないなりすればよろしいんだ。


ところが、現実には「オレが正しいことに変わりはない」んだから、「お前はオレに同意するはずだ」ということになっていて、だからおかしいことになる。


たとえばホメオパシー批判はおかしいというと、「お前はホメオパシーの肩を持つのか」という話に普通になるし、実際ブコメで叩いてた。。。今だったら、Twitterで仲間内で愚痴る。


リフレ派も同様で、「オレが正しい」んだから、日銀も財務官僚も、一般人どもも「オレ」に同意するのが当然だ、しかし現実にはリフレ政策をとらない官僚たちはバカだ、リフレ派を批判する連中は「御用一般人だ」という話になる。


つまり、ニセ科学批判にしろリフレ派にしろ、根っこにはコミュニケーションの可能性について実は素朴に信じている部分があって「なぜオレの言っていることが分からない」と思っている節がある。だから、荒れる。炎上起こしてブログを潰したりしたネット右翼もおそらく同様で、素朴に信じていることによりかかって甘えてるから、だからああいうことになる。


ところが、「オレの言っていることが分からない」のは当然だというところから始めておくと、理解されなくても諦めがつきやすいので、無駄にもめない。


だから、このところ繰り返し書いているように、「対話の大事さ」なんぞと分かったようなことを書く前に、そもそも対話以前にコミュニケーションの不可能さを前提にすることを強調しておかなければろくなことにならないよと、僕はそう言っている。