ネットでコミュニケーションは基本的にできない

一般的にはインターネットはコミュニケーションツールだと思われている。遠くの人とちょっと連絡を取るのに便利だという意味ではそれは正しいけれど、では議論をしたり対話したりするのに、インターネットは使えるかというと、使えないと僕は思う。


これはリアルでもそうだけれど、議論が成立するためには、あるいは議論相手になると思えるには、それなりの相手を選ぶものであって、言葉が通じさえすれば誰とでも議論ができるというものではない。相当に相手を選ぶものだ。


普通に会話をする場合でも基本的には同様で、会話ができる相手とできない相手というものがある。


相手にできない人とは会話であっても議論であってもできないものはできない。にもかかわらず、意志疎通を図ろうとするのは、かなりの忍耐力や工夫を必要とする。か、適当に受け流すしかない。で、適当に受け流す程度の言葉のやり取りを「コミュニケーション」と言っていいのかどうか。


こういう考えに至ったのは、僕自身、以前はもうちょっと安易に考えていたところがあって、ネットなら誰とでも話ができるだろう、なんとかなるのではないかと思っていた。実際そのようにふるまって、痛い目にあったり、疲れたりした結果、ネットで他人とのコミュニケーションを安易に取れると考えるのはやめることにした。このブログでコメント欄を閉じているのも、ブログをたてる以前にニセ科学批判の人と対話してみて、とてもじゃないが会話も議論もできない人たちだというのが分かったので、だからコメント欄を閉じることにしたのだった。

少し脱線するけれど、いわゆる実名・匿名論議の匿名擁護論で「中身が問題だ」みたいな議論を僕が全く信用しなくなったことともつながっている。実名の人たちは通常は肩書きも表に出すので、そういうことが会話なり議論なりやり取りをしやすくさせている。ま、はっきり言って無駄に信用された上で、その人の言うことが聞かれている部分があって、仮に「○○大学の先生」という肩書きが分かれば、良かれ悪しかれ、受け入れられる(か、妙に反発されるか)。で、これを意志疎通と言っていいのかどうか、私は知りません。おそらく、ネットにおけるリスペクトの源泉の一つになってるだけ。


ようは、誰もまともに意志疎通を図る気がないんだよ。

議論も会話もネットでやるのは相当難しいとなったら、何ができるかというと、せいぜい「おしゃべり」だろうと思う。無駄口なり、ダジャレなり、冗談なり、なんでもいいが、そういうことならネットは別に害もないし、そういう意味での「コミュニケーション」ならできる。


でも、ネットであれこれしようとか、ネットで何かが変わるかもしれないと思っている人たちは、ネットでできることはせいぜい「おしゃべり」だけだとは考えていないわけでしょう?だから「集合知」などという無駄な概念を持ち出して正当化したがるわけでしょう?

Twitterは、今のところその極致をいっているようなもので、気の合う人とおしゃべりするしか、現実的にはできない。


話ができない相手だと思ってる人が、たまにずけずけと入り込んできて、対話のチャンスを与えてやってるのにもったいない、みたいなことを言いだされると本当に腹が立つんだが、先方はなぜこちらが怒ってるか分からないというずれが生じる。それはここに原因があって、こちらはネットでコミュニケーションできないと思ってる一方で、先方はもっと簡単に考えていて、だからズレる。


簡単に考えるタイプはえてして「有名人」に少なくない印象があるんだが、たぶん、「有名人」だからこそネットで対話が簡単にできているような錯覚が生まれるんだという自覚がないんだね、あれは。


このあたりのことは、ネット○○派とも関係があるかもしれないなと思うので、ひょっとしたらもうちょっと書くかもしれない。