「フラット幻想」

ネットでは、えてしてゆるいピラミッドが形成されて、それが○○派になっているということは以前書いた。
今日の雑談


「○○さん」や「××先生」へのリスペクトでまとまって、中間的な人が意見を拡散させて、結果的にはそれが明確ではないにしろ、ゆるいピラミッドを形成してしまっている。だから末端の人は、途中で逃げるか、どこまでもお追従を言ってついていくことになっている。


Twitterが面白いのは、末端の人がピラミッドの頂上付近にいる人により近しく交流できるかのような印象を与えている点にあると思う。ブログのコメント欄のやりとりとはまた違うものがあって、ピラミッドの真ん中をスキップできる。このへんは、おそらく「有名人」の人たちも強く感じているところのはずで、Twitterが「有名人」向きだと僕が考える理由の一つ。

そうなると、Twitterでますますフラットな、対等な関係になったんだ、みたいな議論を信じている人が、相当のレベルのはずの人にもいるのでアングリしたんだが、んなわけがない。ネットでフラットなんてありえない。


仮にフォロワー10万の人と100人の人がいるとして、そこには確実に力の差というのがある。同じことを言うとしても、意味合いが違ってくる。


昨日書いた「スケープゴート」手法(ネット○○派 part264 馴れ合い - 今日の雑談)は、フォロワー100人の人が10万人の人を相手にやるのは滑稽というしかない一方で(ただし、滑稽だと分かっていてやるというのはある)、フォロワー10万人のほうは割に簡単にこれができて自己正当化の論を張ることができる。それはある種の政治であって、そこを無視した議論はダメだろうと思う。


ブログでも同じだとか、必ずしも支持者だけがフォロワーになっているのではないとしても、直接肌えに接触するような近しさを印象に与えるTwitterは「フラット幻想」を持つ人の幻想をおそらくより強固にさせてしまって、ネットにおけるコミュニケーションの不可能さについて思い至らない。


ネットではコミュニケーションができないということはもう少しよく考えられるべきだと思う。妙なリスペクトによって、人間関係を維持することが優先されて、空気を読んでものを言うのは、コミュニケーションを図ることと根本的に異質なもので、ますますものが言えなくなってくる。