ネット○○派 part261 無題

「自分は正しい」意識というのは、言いかえると自分は正しいことを言っていると信じている意識のことを指していて、その主張が客観的に正しいかどうかは問題にしていない。その主張が客観的に正しいかどうかは別にして、「自分は正しい」意識を背景とした「群れ」の形成の結果でてくる、ネットにおける集団の言動を、僕は問題視している。


ネット右翼だって、客観的には「正しい」ことを言っている部分があるかもしれないし、たぶん一つや二つは正しいことを言っているんだろうと思う。だけど、ネット右翼が問題なのはそこじゃない。


リフレ派だって、リフレという主張そのものはある程度妥当かもしれないが、リフレ「派」になるともうダメになってしまう。


本当に客観的に正しいかどうかはそこでは問題ではなくて、とにかく彼らは自分は正しいと信じている。。。いや、彼らは、客観的に正しいことを言っていると信じているが、「信じている」というのは主観の問題に他ならない。


つまり、○○派の内部では客観性も担保されていて十分正しいとされる言説が、外部から見ると必ずしもそうではなく、あるいはたとえ正しいとしても、表に出てくるのは主観的な「自分は正しい」意識の発露でしかないということになる。


宗教みたいだというのはこの辺が原因で、自分たちは正しいと信じているので折伏するか傷のなめあいになるかで、先鋭化して自家中毒を起こす。

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仮に客観的に全く正しいことを言っていればどうなるんだろうか。


個人的には、全く正しければ正しいほど、ある種の余裕が必要だろうと思う。それが自由というものだろうと、僕は信じているので。だから、個人がなにを言うのも勝手だけど、集団になってワイワイ騒いである空気を醸成して、物を言いにくくさせるようなやり方は好まない。


そこで、客観性も担保された、確実に正しいことを言っているのだといって自己正当化するのは、、、あるいはそれが許される、またそうであるべき世界はあるし、それはその世界のなかだけでやってもらえばいいのであって、、、こういう自己正当化は単なる開き直りにしかなってない。余裕がない。


この余裕のなさが、○○派の外部からみて宗教のように見えたり、あるいはネット○○派が共通してもつ言動の背景になっている。「正しいこと」を多数派を形成して訴えるのは時には結構かもしれないが、それで何でも自己正当化されるかどうかは、また別問題だろう。