ウブ

海外の懐疑主義の延長線上としての疑似科学批判と、日本のニセ科学批判は、たとえ表面的には似たようなことを言っていても全く別物だとは繰り返し書いてきたところだ。日本のニセ科学批判は詐欺だとか「人が死ぬ」などと言いたてて通俗道徳でワイワイやってるだけなので、だから漢方も鍼も許容してしまえるダブルスタンダードができるんだけども、これは本来は懐疑主義でもなんでもない。にもかかわらず、科学だの手続きの問題だだの懐疑だだのいう。したがって、日本のニセ科学批判がダメな理由の一つはこれだと言っている。


海外のほうは「合理主義に基づく不合理叩き」が徹底されているので、宗教批判もやるし、欧米ではこれだけ広く定着したホメオパシー相手に喧嘩もする。


では、米国やヨーロッパの懐疑主義疑似科学批判を日本に持ち込んだら、それは支持できるかというと、それはそれで別の話だろうと僕は思う。


米国にしろ欧州にしろ、キリスト教の影響が非常に強い国々で懐疑主義の立場をとることには一定の意味がある。逆にいえば、一般的にはSkepticism という単語に色がついてしまっていて、だからこそ意味があるわけだ。今風にいえば、空気を読まずに不合理叩きをやることに意味がないとは言えない。


では、彼らの活動を支持できるかというと、できない。なぜかというと、やっぱり余裕がないからですよ。懐疑主義団体を見たときに思ったのは、彼らの合理主義に対する確信が強烈すぎて、余裕がない。


余裕がないからこそ、空気を読まずにものを言えるのだろうし、宗教批判もできるんだろうけれど、一方でだから「懐疑主義」という単語に一般的には色がついてしまっていたり、大して支持が広がりもしない。理屈はそうかもしれないけれど、という現実を持ち出されるとどうにもならない。


実際、もし日本で欧米流の懐疑主義団体ができたら、日本人はたいてい引いてしまうと思う。今みたいに、ニセ科学批判のくくりで支持者が広がる、みたいなことにはならないだろう。


あっけらかんとしている人が、多すぎるんだ。
追記
ここまで書いて付け加えると、日本も不合理に満ち満ちているのだから、合理主義に基づく不合理叩きとして徹底すれば、欧米の懐疑主義団体と同様、それはそれで意味があると思う。そういう立場は認められるべきだし、あってしかるべきなんだけれども。。。