ネット○○派 part54 相対主義とかどうせいうなら、、、

ニセ科学批判って要するに海外の懐疑主義に字面で染まった理系左翼が、そのまま懐疑論を出すと過激すぎて日本じゃ支持されないので、うまく砂糖でくるんでやって、「科学を装って人を騙すのは悪いことだ」というかたちで懐疑論を広めようとした。。。んじゃないの。当たらずとはいえども遠からず、だとあたしゃ思うぞ。砂糖でくるむってのは、それ以外にニセ科学批判の中途半端なスタンスを説明する理由がない。つまり、釣り。


右翼の天羽先生は明らかに消費者問題路線だから、使えるわな。右と左で幅広く、と。実際、ニセ科学批判派の人のはてブを個人個人で見てみたら、薄らネット右翼みたいなのもいるからうまく釣れてるんだわ。

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http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1173068546
このコメント欄。左巻健男先生(「若い頃、共産党系のニューサイエンス批判などの影響を受けました」「共産党は政党のなかでは一番まともという感じをもっています。」)から、例の「ニセ科学は社会の病理」という菊池先生の発言(参考)を引き出した拓殖さんも、だいたい左。


さらに、拓殖さんの次のコメントは僕には非常に分かりやすい。
http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1173021482#CID1175138125

ニセ科学批判というのは、「社会の合理性衰退への批判」という大きな批判活動の中の一つのように考えています。

つまり、懐疑主義のなかの一分野としてニセ科学批判を扱う、合理主義の立場から社会の不合理を批判する。同様の路線は菊池先生も「オーラの泉」を取り上げたときに明言している。
http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1177116506

オーラの泉」はニセ科学じゃないだろう、という意見を書く人もいそうなので、あらかじめ言っておくと、「ニセ科学しか批判しない」わけではありませんから。

拓殖さんのコメントに戻って、

我々も「ニセ科学批判」はしているけど、それを通じて「合理的でない話」を見分けて、指摘しているという事なんですね。

やはり漢方も鍼も全否定されるのがニセ科学批判であるべきだし、「おまじないでも効けばいい」みたいな生ぬるい主張は却下されるべきなんだ。それがあるべきニセ科学批判だし、懐疑主義者の主張じゃないか。


拓殖さんのコメントを続ける。

私は江戸時代の事を書いた本なども好きでずいぶん読んできたのですが、江戸時代の人は現代人より「迷信深い」面はあるのですが、上で書いた様な、「迷信にとらわれながら判断をする」といった事は嫌悪したり、嘲笑したりする動きももっているわけです。本が古本屋に行ってしまったので詳しく出典を示せないのですが、江戸時代にできた商家の家訓の中に「占いや加持祈祷に頼ってはならない」といった条文があつたり、江戸時代の貸本の中の「滑稽譚」を扱ったものの中に、占いやらに凝って振り回されて右往左往する人の話などもあるわけです。


少し顰蹙を買うお勧めかも知れませんが、私は「前世なり守護霊なり信じる人」は「やめろ」とはいいませんが否定しませんが、大まじめにそれを表明する人を「嫌悪したり」「嘲笑したり」するのはかまわないと思っています。それは、人類が作ってきた「文化」として、それらの事を信じる事が蔓延して合理的な判断がゆがめられた経験の安全装置として、社会的に「嫌悪したり」「嘲笑したり」という事が行われてきたのだろうと思うからです。

キリスト教みたいなものが日本にはなかったわけで、したがって欧米の合理主義や懐疑主義が成立する土壌が日本には乏しい。江戸時代の日本の人間が占いや加持祈祷に頼る人を笑ったのは、たぶん、「あー分かる分かる」「人間ってそうだよね」「あほやなあ」という笑いだと思う。ここでヨーロッパの啓蒙主義時代の話を持ち出すならまだ分からないでもないけど、18世紀の彼らもお笑いにはしても基本的に文脈が違うし、「社会的に『嫌悪したり』『嘲笑したり』」する意味合いが違いすぎる。歴史的文化的背景を抜きにしてこんなことを語られても、困る。


繰り返すと、拓殖さんの意見に菊池先生は賛同することが多い。

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こういう人たちに言うべきなのは、「お前たちは科学主義者だ」でもいいけれど、それより、一般に懐疑主義や合理主義を広めようとして物事の筋を曲げすぎていやしませんかということではないの?だって、ある人が科学主義者だろうが原理主義者だろうが、それはそれで個人の自由なわけで、「科学主義者ですがなにか?」と言われたら終わってしまう。


そして、ニセ科学批判に釣られてしまっている人たちには、ニセ科学批判の文脈の混乱やおそらく意図的なごまかしをどこまで自覚してますか?ということなんだな。


いや、いいんですよ。別に左翼でも右翼でも。それは自由だから。左翼だからダメだとかそういうことではなくて。でも、文脈をぼかして素人釣るのはいいことではないですわね。


つまり、どうせ相対主義というならば、科学を相対化するのではなくて、ニセ科学批判を相対化してやる必要があるわけで、そういうことを普通の人たちに伝えなければならない。たぶん、こういう背景を知らないんだから。


しかしまあ、よくもここまで釣りに釣ったもんだ。
追記
どうも、ニセ科学批判の政治的背景については、「ニセ科学は右にも左にも親和性があるから、両方叩く」という反論を用意してるみたいだけど、まあこの反論にはあまり意味がない。


理由の一つは、社会の不合理を叩くのはいいことだってこの文脈そのものが、左派の世界観に寄りかかっているわけで。ニセ科学批判の出自が問題なのに、批判対象は政治的左右に関係なく叩くってのは反論になってない。


しかも、ホメオパシーは叩いて漢方や鍼などの東洋医学に対する批判は甘いというのは、市民運動の過去の歴史抜きに理解できんだろう。「買ってはいけない」は批判できて、漢方をホメオパシー並みに叩かない理由は何だ。
朝日社説 米飯給食―「食の教育」のためにも : asahi.com(朝日新聞社) - finalventの日記
http://homepage3.nifty.com/junko-nakanishi/zak281_285.html
どうせリンクしたって誰も読まないだろうから、僕も引用しておこう。ニセ科学批判は科学の問題、科学を装って人を騙すから問題なんだと素朴に信じている人たちはこれを読めと。科学の問題だったら、ホメオパシーより漢方を叩くほうが急務にきまってる。漢方でも「人が死んでる」。


そこで伝家の宝刀「優先順位問題」を抜くとすれば、、、こんなに都合のいい理屈があるもんか。

雑感282-2004.11.24「漢方薬の問題 −高橋 晄正さんの訃報に接して−」

東大では物療内科に属する医師だった。病院で患者さんを診る仕事もしていた。私が最初に高橋さんの文章を見たのは、グロンサンに薬効がないという内容だった。当時、統計学の重要性も知らなかったのだが、高橋さんの論理のするどさに感銘を受けた。

薬効判定に二重目隠し法などが取り入れられていなかった時代のことである。我が国で、このような科学的な検証方法が取り入れられるようになったのは、国際的な圧力(日本の方法では、外国の試験ではパスしない)と、高橋さんの功績である。高橋さんの主張は、西欧の流れを汲んでいるが、西欧医学の中でも新鮮な主張があった。

グロンサン問題以前から、サリドマイドやスモンなどの薬害問題に取り組み、1970年には、「薬を監視する国民の会」を作り、また、「くすりのひろば」というレベルの高い小冊子を出していた。それは西洋医学、現代医学の批判という側面を強くもつ内容だった。そして、私が高橋さんの名前を知る頃には、市民運動の中では、まさに神様のような存在になっていた。

ところが、1980年代後半になって、高橋さんは市民運動から厳しく批判され、攻撃される存在になってしまっていたらしい。ある時、友人からそのことを聞かされて驚いた。「どうして?」「高橋さんが、漢方薬の批判をはじめたから。確かに、高橋さんの言うとおりだと思うけど、あそこまで強く批判しなくともいいと思うのだが。今までの高橋シンパは、ほとんど批判派になっている、なぜ、かくも孤立化の道を選ぶのか?」と友人は言った。

私は、高橋さんが漢方薬について書いた物を読んでみた、ごく当たり前のことが書いてあった。漢方薬も薬だから、効く場合もあるが、呑み方や量を間違えると害になる、漢方薬は、西洋医薬に求められている「二重目隠し法」での効能検査が行われていない(**)、にもかかわらず、一括保険適用になった。

漢方は、複合薬だから、その成分の一つがその人の病気に効く場合も、他の成分は害になることもある。複合薬だから、効果的だというのはおかしい、むしろ、危険である。効能が弱いので長期に服用することになるが、この長期服用がむしろ問題を起こしやすい、すべての薬を長期に服用していいか、どうか、疑問があるということが書かれていた。敢えて孤立化というのではなく、当たり前のことを言っているだけだ、私はそう思った。

 (**)現在では、漢方薬についても、二重目隠し法で効能試験が行われているものがある。しかし、その結果を見ると、通常“この薬はxxに効きます”と言われている効能と余りにも、隔たりがあることがあり、これはこれでいいのか?疑問が残る。

研究者を切り捨てる市民運動

市民運動のまさに神様であった高橋さんは、漢方薬の危険性を指摘するようになってから、市民運動から「敵」のように攻撃されるようになった。市販の(西洋医学の)薬の薬効試験に問題があると指摘したことで、市民運動では尊敬された。

しかし、西洋医学の薬の問題点を摘出し、検証するために使われた同じ科学を用いると漢方にも問題があることが分かった。いや、もっと大きな問題があった。だから、訴えた、漢方薬は危険と。

それを市民運動は認めない。西洋医学はダメだが、漢方は良いと思っているから。

市民運動は「西洋医学はダメ」というが、ニセ科学批判は「西洋医学はいい」だから、また文脈がねじれとる。つまり、単純にニセ科学批判には、左翼の理性崇拝が根っこにあると認めたほうがすっきり理解できる、、、ってことかな。で、批判対象の選択はかくのごとく恣意的で、最後は伝家の宝刀を抜いておしまい。


もっかい日本学術会議の会長・副会長を引っ張り出してきて、何かを言わせるべきなんではないのかい?新聞記者さんたち。金澤一郎会長って東大医学部だよ。